内田樹の「下流」論
2007年刊行。2005年の6月に行われた講演をベースに、加筆修正の上で単行本に書き起こしたもの。筆者の内田樹(うちだたつる)は1950年生まれ。東大卒で専攻はフランス現代思想。映画論。武道論。現在は神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学人文学部客員教授。
講談社文庫版は2009年に刊行されている。
内容はこんな感じ
格差社会という言葉を日常的に聞くようになってしまった現代の日本。リスク社会は大量の弱者を生産し続ける。その中で、若者たちの学びからの逃走、労働からの逃走は深刻な社会問題となっている。彼らはどうして自らの不利となるであろう選択を積極的にしてしまうのか。教育、労働の現場で起こりつつある驚くべき変化についての問題提起の一冊。
目次
本書の構成は以下の通り
- 第1章 学びからの逃走
- 第2章 リスク社会の弱者たち
- 第3章 労働からの逃走
- 第4章 質疑応答
合理的な判断として「下流」を選ぶ
とかく下流という言葉が世に溢れている昨今だけど、近頃の若い連中って、自ら「学ばない」「働かない」を合理的な判断の結果として選び取っているのではないか?と筆者は問いかける。
昔の日本では、子供はまず家庭内でのちょっとした労働をすることで、なんらかの報酬なり感謝なりが与えられ、家族の成員の一人として認められてきた。一方、現代の子供は家庭内で仕事を与えられない。子供が最初にする社会的行為は、親や祖父母からもらった小遣いを遣うことになってしまった。
子供であっても、消費の現場では「顧客」として尊重される。消費行動は等価交換。同じ価値の対価をすぐさま自分にもたらしてくれる。生まれながらにして消費者として育ってきた現代の子供はすぐさま自らが尊重されなければ我慢が出来なくなっている。行動と同時に同等の対価が得られないことに納得がいかない。 子供が「勉強」をしなくなったのは、勉強をいくらしても等価での見返りがすぐさま自分に返ってこないから。
「勉強」とはそもそも判らないからするわけで、学習の効果が将来が自分にどのようなプラスをもたらすかは本来判らなくて当然。どうして勉強をしなくちゃいけないの?という子供からの問いに、功利的な理由で回答を返しちゃだめ。そんな問いはありえないと却下すべき。子ども達は未熟な自分内の判断基準だけで、それが得か損かを判断し、駄目だと思ったら自信満々でそれを排除する。
資本主義社会ではそもそも「労働」は等価交換にならない。でなくては経営者は利益をため込むことが出来ないし、経済も回っていかない。労働とは本質的にオーバーアチーブ。ニートと呼ばれることを選択した人たちは、このからくりに気付いてしまった人たち。自分を等価交換出来ないシステムに身を投じる必要性を感じない。
結果的にマイナスになる判断でも、自ら選んだことだという自尊感情がそのマイナスを帳消しにしてしまう。かくして日本では社会的弱者が、自らの社会的立場を自らの意志で脆弱化させていくという世界史上でも稀な現象が生じている。
具体的な数字が欲しい
要約するとだいたいこんな感じ。以前に読んだ『下流社会』とか『他人を見下す若者たち』なんかに較べると、一見まだマシな論考に見えるんだけど、頭のいい人が理屈をこね回している感じは否めない。「等価交換」の理論を考えついちゃったオレって頭よくね?って本気で思ってそう。まずその着想ありきで語ってはいないか。本業じゃないにしても、やはり印象批判の域を出てないように思えてしまう。現場に出てフィールドワークするなり、統計的な数字を出してもらうとかした上で判断しないと危険過ぎる。
この筆者にしてみれば、つまるところ「自己責任」ってことなのか。個人の責に帰すのも当然はあると思うけど、社会的な情勢についてもっと掘り下げて考えてみるべきなのではないかと突っ込まずには居られなかった。最後の質疑応答なんて完全に自己満足の世界。ところどころで良いことも言ってるんだけどねえ。この人、自分が大好きなんだろうなあ。第四章でだいぶ印象が悪くなってしまった。
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