河出の「日本文学全集」版が文庫化
2016年刊行作品。池澤夏樹(いけざわなつき)による個人編集版「日本文学全集(全30巻)」の第7巻として刊行された。『枕草子(まくらのそうし)』だけではなく、『方丈記(ほうじょうき)』(高橋源一郎訳)、『徒然草(つれづれぐさ)』(内田樹訳)を併録。日本三大随筆を一冊で読める意欲的な一冊だった。
この全集では日本文学の古典を、人気作家による現代語訳で読むことができるのがウリ。累計50万部を突破する大きな成果を残している。
この池澤夏樹版「日本文学全集」が、2023年より河出文庫古典新訳コレクションとして、順次文庫化されており、『枕草子』も単独で文庫化されることとなった。
文庫版は上下巻の二巻構成となっている。上巻には全集版にも収録されていた訳者、酒井順子によるあとがき「視線のズーム」と、国文学者の藤本宗利(ふじもとむねとし)による解題を収録。下巻には酒井順子による文庫版のあとがきと、更に、日本文学研究者木村朗子(きむらさえこ)による解説「知的でクールな清少納言」が収録されている。
なお、河出文庫古典新訳コレクションはレーベル全体の方針なのだと思うのだが、表紙や背表紙に訳者の名前は掲載されているが、原著作者(本書で言えば清少納言)の名前は表記されていない。著作権はとうに切れているとはいえ、原著作者へのリスペクトとして表記はすべきだと思うのだけど、余計なお世話だろうか。
内容はこんな感じ
藤原道隆の娘、定子は一条天皇の中宮となり寵愛を受ける。その定子に女房として仕えた清少納言が、宮仕えの中で見聞きしたさまざま事物を書き記した日々の徒然。美しきもの、愛しきもの、疎ましいもの。その中に垣間見える中関白家の栄華の日々。平安貴公子たちとの華々しくも機知にとんだ交流。現代の名エッセイスト、酒井順子の手による『枕草子』の現代語訳。
酒井順子版『枕草子』
『枕草子』の現代語訳は多数存在している。特に橋本治の『桃尻語訳 枕草子』は、現代的な言葉遣いに振り切った砕けた訳で知られている。「春って曙よ!」の超訳に衝撃を受けた方も多いのでは?
一方で、酒井順子といえば、出世作となった『負け犬の遠吠え』で知られるように、現代女性の生きづらさ的な部分を的確に言語化してきた。
そのため今回の『枕草子』でも、現代の働く女性の視点が多分に反映されてくるのかな?などと予想していたのだけれど、そこまで尖った訳にはなっておらず、想像よりも堅実な訳出となっていた。その分、受け取る側の間口は広がっていて、いつの時代、どんな世代でも違和感なく読めるのではないだろうか。このあたりは「日本文学全集」の数あるラインナップの一つという点もあるのかな?
五感を使って季節を愉しむ
『枕草子』の内容は大別すると三つに分類される。
- 類聚(るいじゅう)章段:〇〇なものシリーズ。テーマを決めて列挙していく
- 随想章段:日常生活の中で目に留まった美しいもの、気付き
- 日記・回想章段:定子後宮サロンにおける人々の言動の記録
『枕草子』を読んでまず感じるのが、筆者である清少納言の五感を通じて知ることができる平安時代の世界の美しさだ。上記の分類の中では1と2がこれに該当するかな。比較的短い構成となっていて、さっとすぐに読めるのもいい。現代人が共感できる内容もあるし、理解しがたい価値観の部分もある。現代でこれを書いたら炎上間違いなしなのではという、危なっかしい側面もあるのだが、清少納言のキャラクターがよく出ていて、飾らない率直な書きようが実に面白い。
中関白家のプロパガンダ本として
そして『枕草子』の魅力は3つ目の分類、日記・回想章段にある。大河ドラマ『光る君へ』にハマっているわたし的には、この章段が格段に面白かった。
中関白家(なかのかんぱくけ)は、関白藤原道隆(ふじわらのみちたか)から始まる一族。「中」と頭につくのは、絶大な権力を誇った父、藤原兼家(かねいえ)と弟、藤原道長の間に挟まれた、中継ぎ的な地位に留まる家系だったから。道隆は、父の死後関白の地位に就き権力を握るも、僅か数年で世を去る。十分な基盤を固める前に道隆が死んでしまったので、子の伊周以降は急速に勢力が衰え、道長の台頭を許すことになる。
清少納言の主人であった定子は、この道隆の娘。定子は一条天皇の寵愛を一身に受けていたので、道隆が存命であれば、順当に皇子を産んで国母の地位にまで辿り着けたかもしれない。しかし運命はそれを許さず、中関白家は没落の一途をたどり、定子にも悲劇的な運命が訪れる。
『枕草子』はこの中関白家の短い絶頂期における、雅やかな宮中の出来事が綴られている。主人である定子への溢れんばかりの賛美が眩しくも切ない。道隆の子の伊周(これちか)は、中関白家の権威を示すために『枕草子』の普及に尽力したとされる。『枕草子』に登場する道隆や、伊周は惚れ惚れするようなビジュアルと、豊かな教養に裏打ち人物として、ややもすると過剰に美化された状態で描かれ、清少納言の強い「配慮」を感じずにはいられない。