現代の聖地はなぜ生まれるのか
2015年刊行。筆者の岡本亮輔(おかもとりょうすけ)は1979年生まれの宗教学者。現在は北海道大学の准教授を務めている人物。
2012年の『聖地と祈りの宗教社会学』では日本宗教学会賞を受賞している。
『聖地巡礼 世界遺産からアニメの舞台まで』は、岡本亮輔の単著としては二作目にあたる。
この書籍から得られること
- 現代の聖地はどうして生まれるのかがわかる
- 現代人が聖地に何を求めているのかがわかる
- 現代人の宗教的な価値観について知ることができる
内容はこんな感じ
かつての聖地は宗教的な権威と、真正性、そして信徒たちの信仰心をもとに形成されていた。しかし現在の聖地は違う。多くの聖地は信仰心を持たない観光客たちであふれ、宗教とは無縁の場所が次々と聖地として成立し始めている。現代の聖地はどのようにして形成されるのか。人々はなぜ聖地を求めるのか。多くの事例を紹介しつつ、その実態に迫っていく。
目次
本書の構成は以下の通り。
- まえがき
- 序章 現代の聖地巡礼の背景
- 第1章 聖なるものをもとめて 巡礼者は何を見るのか
- 第2章 ゴールからプロセスへ 信仰なき巡礼者は歩き続ける
- 第3章 世界遺産と聖地 選別される宗教文化
- 第4章 作られる聖地 なぜ偽物が本物を生み出すのか
- 第5章 私だけの聖地 パワースポットと祈りの多様性
- 終章 現代社会と聖地巡礼
- あとがき
混ざり合う宗教と観光
まず最初に本書の結論から。筆者によるあとがきから引用させていただこう。
現代社会では聖地巡礼と観光が混ざり合い、それぞれ社会の中で位置づけ直されている。そしてその結果、従来の宗教研究や観光研究の枠組みではとらえきれない変容が生じている。
『聖地巡礼 世界遺産からアニメの舞台まで』あとがきより
現代人の宗教離れが叫ばれるようになって久しい。日本人の多くは、寺社に参詣するのは正月の時くらいだろうし、全国各地で、寺院の檀家、神社の氏子は減少傾向にあると聞く。世界的にみても、キリスト教圏では日曜日に教会へ行く人が減っており、生活における宗教が及ぼす影響は少なくなっている。
本書では「宗教が自明でなくなった現代世界で、聖なる場所や聖なるものはどのようにして社会の中に姿を表すのか」を考察していく。
ゴールよりもプロセスが大切
まず最初に取り上げられるのがスペイン北西部にあるカトリックの聖地、サンティアゴ・デ・コンポステラである。この地に至るまでには数百キロの道のりを踏破しなくてはならない。それにも関わらず、この地には爆発的な数の巡礼者が詰めかけている。
サンティアゴ・デ・コンポステラは聖ヤコブの埋葬地として知られるカトリックの聖地だが、現代の巡礼者はゴールそのものを重視しない。長大な距離を歩いて旅をするそのプロセス、体験に価値が置かれている。彼らの多くは「信仰なき巡礼者」なのである。
筆者は、現代の特徴として、宗教の私事化を挙げている。現代人は自分にとって好ましい点だけを宗教からピックアップして自由にカスタマイズしてしまう。伝統的な宗教の外側で、数多の私的な信仰が発生していると指摘しているのだ。
人びとのつながりが生み出す新たな聖地
続いて登場するのが現代に入って新たに登場した「作られた聖地」たちである。
青森県新郷村(旧戸来村)にキリストの墓があるのをご存じだろうか。キリストは処刑されておらず、日本で死んだ。処刑されたのは弟のイスキリであると主張する荒唐無稽な伝承である。キリストの墓は偽書として名高い竹内文書(たけうちもんじょ)に基づく。作られた聖地であるにも関わらず、毎年行われる「キリストまつり」には多くの人々が集う。
キリストの墓については、現地の人々も、そこに集う観光客も真正性にはこだわっていない。偽史に基づく聖地であっても、毎年の祭礼が積み重ねられていくことで、人々の意識が変容し、新たな聖地が形作られていく過程は興味深い。
パワースポットが宗教の形を変える
「作られた聖地」として、より馴染みがあるのは世界各地に出現したパワースポットの類だろう。筆者はパワースポットの類型として以下の三つを挙げる。
- 再提示型
かつての聖地が改めて、パワースポットと言い換えられたもの。
熱田神宮、石清水八幡宮、春日大社、鹿島神宮、戸隠神社、高野山、比叡山、伊勢神宮、出雲大社など。
- 強化型
特定の効能や、寺社の境内の一部など、以前とは異なる要素の強調によってによってアピール力が強化されたもの。
箱根神社内の九頭竜神社、縁結びの功徳で知られる東京大神宮、安倍晴明人気からブレイクした清明神社など。
- 発見型
非宗教的な場所がパワースポットとして提示されるタイプ。
秋芳洞や、縄文杉、珠洲岬、ゼロ地場の地として知られる分杭峠など。
パワースポットを喧伝するのは、雑誌やテレビ、霊能者などのスピリチュアル関係者たちで、その多くは神社仏閣の関係者ではない。パワースポットには有名な神社仏閣が名を連ねながら、本来の宗教性は表に出てこない。
逆に言うと、宗教性を押し出してこないからこそ、市町村などの公的機関が後押ししやすくなっており、マスコミ受けしやすくなっている点は面白い。
パワースポットにおいても、現代人は、その効果や特性をうまく取捨選択し、自分だけの「私的な信仰」にカスタマイズして取り入れている。
観光文化が生んだ新たな共同性
最終章で登場するのは、もっとも新しい形態と思われる「アニメ舞台」の聖地化が紹介される。『らき☆すた』における埼玉県鷲宮神社、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』における秩父定林寺などの聖地化は、既に述べたキリストの墓や、パワースポットの類以上に、宗教性から離れた事例と言える。
かっての聖地。宗教的な聖地は、伝統的な権威を持つ組織が、その真正性を保証するものだった。筆者はこれを「冷たい真正化」とする。
一方で「熱い真正化」では、社会的にそれほど認知されておらず、強い力を持たない集団や人々がある場所に権威を与える。キリストの墓やパワースポット、アニメの聖地は「熱い真正化」の事例に相当する。
聖地が新たな共同体を作り出していく
歴史的な真正性がなかったとしても、そこに集った人々の共同体意識や帰属感が聖地を形成することがある。まとまった人々が聖地を共有することで、新たな宗教的概念が成立する。
伝統的な宗教が衰退していく中で、実は新たな宗教の形が生まれていたとする筆者の指摘は注目に値する。最後に筆者はこう述べている。
世俗化社会において、宗教は必ずしも教会や教団のような容れ物を必要としなくなっている。宗教的なものは世俗領域の中に溶け込むようになっており、聖地巡礼の興隆は、宗教と社会の新たな関心性のあり方を指し示しているのである。
『聖地巡礼 世界遺産からアニメの舞台まで』終章より
価値観の多様化が進む現代では、宗教的な概念すらも私事化されてしまう。現代人はそれぞれに自分が信じたいものだけを、自分好みにカスタマイズして「私的な信仰」を作り上げる。その流れの中に「聖地巡礼」があり、21世紀的な宗教的価値観が生まれているのかもしれない。
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