講談社ノンフィクション賞、受賞作品
2007年刊行。講談社の文芸誌「群像」の2006年11月号~2007年1月号にかけて連載されていた作品をまとめたもの。筆者の原武史(はらたけし)は1962年生まれの政治学者。先日エントリを書いた、『レッドアローとスターハウス』に続いて二冊目の著作紹介となる。
『滝山コミューン一九七四』は、第30回の講談社ノンフィクション賞を受賞している。同時受賞作に、西岡研介『マングローブ テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』、城戸久枝『あの戦争から遠く離れて 私につながる歴史をたどる旅』がある。
講談社文庫版は2010年に刊行されている。解説は作家の桐野夏生(きりのなつき)が担当している。
この書籍から得られること
- 1970年代の学校現場の雰囲気がわかる
- 集団至上主義教育の思想的背景がわかる
内容はこんな感じ
東京都東久留米市。1968年~1970年にかけて造成が進められた滝山団地。団地住民を受け入れるため、新たに開校した第七小学校では、意欲的な教師による、自由で民主的な教育が推進された。集団による競争論理の導入。特定のクラス児童に占拠されていく代表委員会。個人の信条よりも、集団の利益が重んじられる。次第に権威性を帯びていく教育行為は、子どもたちを追い詰めていく。
目次
本書の構成は以下の通り
- 1 序
- 2 改革
- 3 「水道方式」と「学級集団づくり」
- 4 二つの自己
- 5 代表児童委員会
- 6 「P」と「T」の連合
- 7 6年になる
- 8 自由学園・多磨全生園・氷川神社
- 9 林間学校前夜
- 10 林間学校
- 11 追求
- 12 コミューンの崩壊
- 解説
団地のもたらした均質性
1950~1970年代初頭にかけて、西武沿線では大型団地の造成が相次いだ。本書の舞台となる滝山団地はその中でも最大級のもので、総戸数3,180戸(うち分譲が2,120戸)。GoogleMapで見てみるとこのあたり。板状の建造物が多数立ち並んでいるのが確認できるはずだ。
総戸数3,180戸で、一世帯あたり仮に四人家族だとすると、12,000人を超えてしまう。狭い地域にいきなりこれだけの人口が増えるのだから、当時の混乱は容易に想像が出来る。教育施設は不足し、ほぼほぼ団地の住民だけを対象とした第七小学校が誕生する。
当時の日本住宅公団(現、都市再生機構)が運営する団地群は、比較的家賃が高めで、住民はホワイトカラー層に限られた。同じような建物に、同じような職種の家族が入居する。きわめて均質化された空間で、リベラルな思想が発達し、独自の政治空間を醸成したのは先日の『レッドアローとスターハウス』でご紹介したとおり。
革新的な気風を持った滝山団地の住民構成と、意欲的な教師による、自由で民主的な教育。この二つが合体したことで、第七小学校では「コミューン」が生まれたと筆者は説く。
全生研による集団主義教育
全生研とは、全国生活指導研究協議会の略。1959年に誕生した、日教組の中から立ち上がった民間教育研究団体だ。集団主義教育が是とされ、「大衆社会状況の中で子どもたちの中に生まれてきている個人主義、自由主義意識を集団主義的なものへ変革する」ことを企図していた。
民主集中制を組織の原則とし、目的に向かって統一的に行動する自治的集団を作る。全生研はこの原則を学校教育に持ち込もうとした。そして、第七小学校では意欲的な若手教師によって、この理想が実行に移された。
ダメな子を選んでいく消去法選挙。ベルが鳴ったら席に着く。席についていない子どもは減点され、所属している班全体の評価が下がる。連帯責任を伴う、班単位で行われる極端な競争主義。成果のあげられなかった班を「ボロ班」として晒し上げる行為。そして校内では次第に、全生研に所属する教師のクラス児童の発言力ばかりが向上し、代表委員会などで主要な役職ポストを独占していく。
実体験に基づく生々しいドキュメント
筆者は滝山団地の出身で、第七小学校のOBでもある。筆者は自分自身の体験を振り返りつつ、当時の関係者たちへのインタビュー行い、あの時、第七小学校で何が起きていたのかをつぶさに検証していく。筆者の記憶力がスゴイ!
中学受験を志しており、小学四年から進学塾四谷大塚に通っていた筆者は、第七小学校の全体主義的傾向に馴染めず、個人の主張を枉げなかった。そのため、体制側からは格好のターゲットとなり度重なる抑圧を受ける。児童だけが集まる会議に呼び出された筆者が、自己批判を求められるシーンは、読んでいて慄然とさせられた。
六年生になってからの最大の行事、林間学校で、第七小学校の熱狂は頂点に達する。集団主義に否定的であった筆者すらも、ともすれば、集団に埋没していく心地よさ、高揚感に飲まれていく。これは、わたし自身の経験と照らし合わせても理解できるように思えた。非常に生々しい質感を伴ったドキュメント作品となっている。
あの頃の学校現場の違和感を言語化
私事で恐縮だが、年代は少し後とはいえ、わたしも筆者と同様に、同じような環境の公立校で小学校時代を送った人間だ。わたしの通っていた小学校は、新たに造成された郊外の住宅地(戸建てではあるが)内に立地していた。小学校には同じような生活環境の子どもたちしかいなかった。
ベル席運動(ベルが鳴ったら席に着く)では、違反の数がグラフ化されて教室内にいつも掲示されていたし、今にして思えば、代表委員会の活動は異常に力が入っていたように思える。落選させたい児童を選ぶ消去法型の選挙も導入されていて、候補者たちは名指しで欠点を列挙されていた。今にして思えば、ずいぶんひどいものだったと思う。
小学校時代に代表委員会のリーダーとして、教員側に絶大な支持を受けていた友人は、反面で教師の手先として、他の児童たちには「いい子ちゃん」として忌避されてもいた。彼はこの反動か、中学以降はまったくその類の役職を引き受けず、淡々と勉強して地域トップ校に進学していった。
筆者と違って、体制側の児童だったわたしは、何も考えずに空気に流されていた。それでも、なんだか重苦しい。どうしてこんなことをしなければいけないのだろう。そんな気持ちを感じていたように記憶している。
過熱した現場の雰囲気は、時として、教員側の思惑すらも超えていたのではないかと思う。あの時代、あの狂騒の背景にはどんな思想的意味があったのか。本書『滝山コミューン一九七四』は1970年代の学校現場を覆っていた違和感を、見事なまでに言語化してくれる一冊なのであった。