現実と融合したネット社会を読み解く
2021年刊行。筆者の岡嶋裕史(おかじま ゆうし)は1972年生まれの情報学研究者で、現在は中央大学国際情報学部の教授職にある人物である。
本書は講談社のオンライン誌「クーリエ・ジャポン」、光文社のウェブメディア「本がすき」、中央大学出版部の『アジア的融和共生思想の可能性』などに掲載されていた作品をまとめたもの。
情報学についての著作が数多くあるが、『ジオン軍の失敗』のようなサブカルチャー方面の著作も上梓しており、オタク方面の知識も相応に備えた人物であることが伺える。
この本で得られること
- インターネットの普及で人間関係がどう変わったかがわかる
- サブカルチャー(アニメ)の変遷から、個人主義の進展と価値観の多様化について知ることが出来る
内容はこんな感じ
誰もがインターネットを使えるようになった時代。インターネットは特別な場所ではなくなり、現実社会の延長線上にあるリアルな空間となった。インターネットが普及していく過程で社会はどのような変化を遂げたのか。そして今後どのように変貌を遂げていくのか。サブカルチャーの側面からそのプロセスを読み解いていく。
目次
本書の構成は以下の通り
- はじめに
- 第1章 インターネットでいま何が起こっているのか
- 第2章 インターネットの登場
- 第3章 ポストモダン
- 第4章 インターネットが社会に返す影響
- 第5章 新しいインターネットの構造と小さな信仰
- コラム
- おわりに
インターネットは格差を固定し強化するツール
本書の前半パートではインターネットの歴史が示される。
1970年~80年代にかけての黎明期。インターネットはごく一部のマニアのための空間であった。この段階でネット特有の、自由、平等、無償の概念が生まれる。ネットはオープンで誰にでも開かれており、集合知がさまざまな問題を解決する。一個人がメディアとなり自由に発信し、世界中の人間と容易に繋がることができる。そう信じられていた時代であった。
1990年代~2000年代にかけてネットは爆発的な勢いで普及し、2010年代以降はスマートフォンが流通することで「誰もが使えてあたりまえ」の存在となった。利用者の増大は、リテラシーの低下を招く。かつては一定のスキルと知識を持った人間が利用していたネット社会も、今となっては玉石混交。現代、ネットに上がっている情報はノイズだらけである。知りたい情報があって検索をしても、思ったような結果を得ることができない。そんな経験をされた方も多いのではないだろうか。
人間とは同質、同種の存在と群れたくなる生き物である。ネット社会が現実と同様の存在感を持つに至った現在。人間は、ネット社会でも同じような属性の中に居場所を見出すようになっていく。そしてSNS(LINE、Facebook、Twitter)の登場が、クラスタ化を促進している。
かつて平等、自由であると思われていたネット社会も、結局は現実社会と同じだった。ネットのアクセスは勝者の総取りである。検索されても読まれるのは上位の数名だけ。人気のある人間はより多くのものと繋がり更に発信力を高める。一方で、人気のない人間の意見は誰にも読まれることがなく陰に隠れていく。
インターネットは、現実の社会以上に格差を固定して強化するツールとなり果ててしまっている。これが筆者の説く、ネット社会の現状認識である。
大きな物語の終焉とポストモダン
本作の中心部分となるのは第三章の「ポストモダン」である。
まずは「大きな物語」と「ポストモダン」について説明しておこう。
ポストモダン
現代という時代を、近代が終わった「後」の時代として特徴づけようとする言葉。各人がそれぞれの趣味を生き、人々に共通する大きな価値観が消失してしまった現代的状況を指す。現代フランスの哲学者リオタールが著書のなかで用いて、広く知られるようになった。リオタールによれば、近代においては「人間性と社会とは、理性と学問によって、真理と正義へ向かって進歩していく」「自由がますます広がり、人々は解放されていく」といった「歴史の大きな物語」が信じられていたが、情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向への歴史の進歩を信ずる者はいなくなった、とされる(『ポスト・モダンの条件』1979年)。
(後略)
日本社会で考えてみると、高度成長期は望めば誰にでも職が与えられ、働けば働くだけ豊かになることが出来た時代であった。しかし社会構造の変化が、そんな常識を変えてしまった。リーマンショックや、就職氷河期時代の到来は、頑張れば報われる時代を終わらせてしまった。誰もが同じように頑張り、同じように成功できた時代はもはや存在しない。こうして、個人主義が台頭し、人々の価値観も多様に分化していく。
「大きな物語」は終わり、現在は「ポストモダン」の時代に突入している。
大きな社会変動が起こった際に、最初に影響を受けるのは社会の下層にある人々である。この視点から、筆者はサブカルチャーの変遷を読み解くことで、社会の変化を知ることが出来ると説いている。
1970年代までは『ウルトラマン』や『水戸黄門』のような、勧善懲悪型の物語が主流であった。この流れを変えたのが1970年代後半に登場した『機動戦士ガンダム』である。この作品では主人公側の正義が揺らいでいる。続いて1990年代に登場した『新世紀エヴァンゲリオン』ではもはや正義の概念が希薄である。2000年代に登場した『叛逆のルルーシュ』では正義の執行自体がもはや不可能となっている。
アニメ作品に例えた説明は、こうした作品を全て見ているわたしのような人間には非常に理解しやすかったのだが、そうでない方にはちょっとピンと来ない部分があるかもしれない。
「みんな違ってみんないい」に人は耐えられない
後半パートの第四章、第五章ではインターネットが社会に及ぼす影響や、これからの在りようが示される。
人間の価値観が多様化し、ネット社会では同質の存在と容易に繋がることが出来るようになった。一方で、人間は自分と異なる存在に対して敵愾心をむき出しにするようになっていく。日常的に繰り返されるネットでの「炎上」騒ぎはその一端とも言えるだろう。他者への寛容性が失われていくのである。
以前であれば、異質なものは目に入ることも少なかったし、目に入ったとしても無視することが出来た。しかし、ネットのSNS社会では否が応にも異質は視覚化されてしまう。個人の能力と権利が拡大した社会が、逆に多様性を殺す結果となってしまっているのは何とも皮肉な事態ではある。
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