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『四国辺土 幻の草遍路と路地巡礼』上原善広 遍路で生活する人々の姿に迫ったノンフィクション作品

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草遍路と四国の路地巡礼

2021年刊行。筆者の上原善広(うえはらよしひろ)は1973年生まれのノンフィクションライター。

四国辺土 幻の草遍路と路地巡礼 (角川書店単行本)

2005年のデビュー作『被差別の食卓』は各方面で話題になったので、記憶されている方も多いのではないか。

2009年刊行の『日本の路地を旅する』では大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

上原善広の著作では、多くの場合「路地」は被差別集落を指す。これは被差別集落の出身であった、作家の中上健次が自身の生地を「路地」と呼んだことに倣っているらしい。一般的な「路地」の意味とは異なるので注意が必要だ。上原作品では、この「路地」を取材したものが非常に多い。

この書籍から得られること

  • 生活のための四国巡礼について知ることが出来る
  • 辺土と呼ばれた人々の人生について知ることが出来る

内容はこんな感じ

辺土は、草遍路、乞食遍路、プロ遍路、職業遍路、生涯遍路とも呼ばれる。帰る家を持たず、生活のため、生きるために四国巡礼をし続ける人々を指す。昭和30年代までは四国巡礼の多くが辺土であったという。スーパーの店頭で托鉢をし、個人の家々を訪ね歩いては門付けをする現代の辺土たちの姿に迫ったノンフィクション作品。

目次

本書の構成は以下の通り。

  • 第一章 辺土紀行 徳島――高知
  • 第二章 幸月事件
  • 第三章 辺土紀行 高知――愛媛
  • 第四章 托鉢修行
  • 第五章 辺土紀行 松山――香川
  • 第六章 草遍路たち
  • おわりに

1,3,5の奇数章では「辺土紀行」と題して、自身が体験した四国巡礼の過程が描かれる。2,4,6の偶数章では、特定のテーマに内容を絞った「辺土」の事例が紹介されている。

対象に寄り添う、参与観察

社会調査法のひとつに、参与観察という方法がある。

定型的な方法論が確立しているわけではないが、参与観察に従事する者は研究対象となる社会に、しばしば数か月から数年に渡って滞在し、その社会のメンバーの一員として生活しながら、対象社会を直接観察し、その社会生活についての聞き取りなどを行う。観察者はフィールドノートに様々な記録をとり、それを後にデータとして扱うことがある。

参与観察 - Wikipediaより

筆者が取材対象とする人々の多くは、通常の社会からは疎外されてしまった人間たちだ。こうした人々への取材が難しいことは容易に想像がつく。いきなり会いに行っても、そもそも会ってもくれないだろうし、会えたとしても彼らの人生の核心に迫るような話を引き出すことは容易ではない。

その点、参与観察では、取材対象者と同じフィールドに入り込んでいき、長期にわたって関係を作り上げていく。時間と根気、そして強烈なコミュニケーション力が必要とされる行為だ。筆者は自らも徒歩での四国巡礼を行うのみならず、実際に辺土を行っている人物に弟子入りし、托鉢や門付けを体験している。その行動力には、ただただ圧倒される。実体験に裏付けされているだけに、筆者の文章には、迫力があり、生々しさがある。現地の温度感や匂い、息遣いまで伝わってくるかのような筆致が、とても魅力的であると感じた。

生きるための四国巡礼

四国八十八箇所。四国遍路では、八十八箇所の寺院を巡礼する。その距離は1,000キロを超える。徒歩で行った場合、最低でも四十日はかかる。現代ではバスや車で一気に回るツアーがあったりと、レジャー化が進んでいる。

しかし、昭和三十年代頃までは、生活に困窮した人々や、業病を背負った人々など、一般社会から切り離されてしまった人間たちが、生きるために四国巡礼を行っていた。彼らは野宿生活を続け、行く先々で托鉢をして金銭の援助を周囲に求めて生きていく。四国を何周もしていく中で、彼らはいずれ倒れ、その地で生を終える。現代人からは想像を絶する人生だが、このような生を送った人々が存在していたのである。

現代の辺土たちを取材する

現代では路上生活をされている方々への、社会の目が厳しくなり、また、多少なりとも福祉の手が伸びるようになったこともあるのだろう、辺土として生きている方は非常に少ない。ただ、皆無ではない。現代でも辺土生活をされている方は存在するのだ。本書の中では、そんな彼らの実態に迫っていく。

第二章「幸月事件」では傷害事件を起こし指名手配をされながら、四国にわたり辺土となり、特異な風貌と行動で有名人となるも、テレビ出演がきっかけで逮捕されてしまった男の生涯が描かれる。

第四章「托鉢修行」では現役の辺土ヒロユキが登場。筆者は、ヒロユキへの弟子入りを志願し、托鉢と門付けのノウハウを学ぶ。進学校として知られる、都立駒場高校出身でありながら、落ちこぼれ、社会から逸脱していったヒロユキは、辺土となることではじめて自己肯定感を得られるようになった。

幸月やヒロユキのような人物は、通常であれば、ホームレスと呼ばれ、周囲からは忌避される存在となる。しかし、四国ではそんな彼らを辺土として受け入れる独特の風土がある。ホームレスとして軽蔑されてきた彼らが、四国で辺土となることで、崇拝の対象にすらなってしまう。

ヒロユキは生活保護を受けて大阪で生きることも出来た。しかし、あえてその道を選ばずに辺土となった。

ヒロユキは語る。

だから人間って、暮らしていくためには食べ物と住まいも必要なんだけど、人とのつながりとか、生きがいも同じくらい必要なんだなと、死んでいく仲間を見ていてわかったんだ。

『四国辺土 幻の草遍路と路地巡礼』p302より

長年路上生活者として暮らしてきたヒロユキの言葉だけに、とりわけ重く感じるひと言である。

老後は四国巡礼をしたいと思っていたけれど

わたし個人の話になるが、四国には五、六回ほど訪れていて、個人的にも大好きな土地のひとつだ。八十八箇所霊場のいくつかを参拝したこともあり、老後は、四国巡礼をやってみたいなと常々思っていた。

しかし本書を読んで、四国巡礼が本来持っていたセーフティネットとしての役割を知ってしまうと、レジャー気分で安易に手を出すべきではないようにすら思えてしまう。

とはいえ、本書は四国巡礼の歴史と実情、そして本質を知る上では、非常に有意義な一冊だったと思う。

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