平氏一族の全貌がわかる
2022年刊行。筆者の倉本一宏(くらもとかずひろ)は1958年生まれの歴史学者。国際日本文化研究センターの教授。
専門は日本の古代政治史で、関連著作多数。今年刊行された『平安京の下級官人』が気になっていて、こちらを読もうと思っているうちに、先に本書『平氏 公家の盛衰、武家の興亡』が手に入ってしまった。
この書籍から得られること
- 平家は清盛や将門だけではなかったことがわかる
- 武家ではない堂上平氏の歴史について知ることが出来る
内容はこんな感じ
「新皇」を名乗り、東国に独自の勢力を築こうとした平将門。初めての武家政権を樹立した平清盛。平氏といえばこの二人の名前が思いこされる。しかし、平氏は将門と清盛だけではない。桓武天皇からはじまる桓武平氏。その系譜を受け継いだ平氏一族の歴史を概観。宮中で、そして武家社会でそれぞれに重きをなした一族の全貌を明らかにした一冊。
目次
本書の構成は以下の通り
- はじめにーー平氏とは何か
- 第1章 桓武平氏の誕生
- 第2章 その他の平氏
- 第3章 公家平氏の人びと
- 第4章 武家平氏の葛藤
- 第5章 公家平氏と武家平氏の邂逅
- おわりにーーその後の平氏
平氏の歴史がここに
天皇の息子たちは多数存在したとしても、天皇になれるのは皇太子だけ。残りは、親王として生涯を生きるか、もしくは姓を賜って臣籍に降り生きていくことになる。
平氏は桓武天皇の息子である、葛原親王、万多親王、仲野親王、賀陽親王の子孫らに与えられた姓であり、特に葛原親王系統の一族が後に栄えた。葛原親王の孫である高望王の血統は関東に下り、平将門らを輩出することになる。高望王は武家平氏の祖ともいえる。
一方で、葛原親王の子である高棟王の系譜は、宮中にて中下級貴族として朝廷を支え、堂上平氏と呼ばれる一大官僚群を形成する。武家の平氏にばかり注目が集まるところだが、平安朝において堂上平氏の働きは重要で、藤原氏の政権を陰で支えていたのだ。
また、平氏と言えば桓武天皇の系統しかないものと思いがちだが、実は、仁明天皇、文徳天皇、光孝天皇の時代にも平氏姓を賜った親王が存在していた(知らなかった!)。
本書『平氏 公家の盛衰、武家の興亡』では、武家平氏、堂上平氏の著名な人物を紹介し、更には桓武平氏以外の血統にも焦点を当て、膨大な量にのぼる平氏一族の全貌を詳らかにしていく。
平安朝を支えた「日記の家」
将門や、清盛一門のことについては多少なりとも知識を持っていても、公家としての平氏、実務官人としての平氏について知っている方は少ないのではないだろうか。第三章の「公家平氏の人びと」では、こうした「武士ではない平氏」一族が取り上げられている。どちらかといえば、宮中で活躍した平氏が大多数で、むしろ武家平氏の方が例外的な存在であったようだ。
特に興味深く感じたのは「日記の家」としての側面だ。「日記の家」とは、Wikipedia先生から引用させていただくとこんな感じ。
日記の家(にっきのいえ/にきのいえ・日記之家)とは、先祖代々の手による家の日記(家記)を伝蔵した公家の呼称。 「日記の家」の代表格は小野宮流藤原氏及び高棟王流桓武平氏である。
先例が重んじられる平安朝の社会では、過去に何があったのかを知っていることは大きな価値となる。歴代の当主が書き残した膨大な有職故実を保管している。その事実こそが堂上平氏の強みになっていく。
武家平氏と堂上平氏がひとつになる清盛政権
第四章の「武家平氏の葛藤」のあたりから、ようやく一般人でも聞いたことがあるような武家平氏の面々が登場してくる。後に源頼朝政権を支える坂東武者たち。千葉、上総大庭、梶原、三浦、畠山、北条、土肥、和田の一族が、ことごとく平家の血統を自称しているのは面白い。
そして清盛の時代に、平氏は隆盛を極めることになる。ここで清盛の継室として入った時子(二位の尼)の一族は、堂上平氏の一門であり、ここに武家平氏と、堂上平氏の合体が実現する。こういう事実を知ると、歴史の凄みを感じずにはいられない。
壇ノ浦の合戦で平家は滅亡したとされるが、もちろんここで滅びたのは清盛系の武家平氏に過ぎない。清盛系ですら、実弟の平頼盛はいちはやく頼朝に通じて生き延びているし、時子の弟(清盛の義弟)であった平時忠も配流先の能登で生を終えている。
堂上平家の本流としては、時子や平時忠の叔父にあたる、平信範の系統が残った。彼らはその後の鎌倉、室町、江戸期を生き延び、明治維新に至るまで血統を繋いだ。明治期には子爵に叙せられ、戦前の華族社会を支えることになる。