平安時代の前期には何があったのか?
2023年刊行。筆者の榎村寛之(えむらひろゆき)は1959年生まれの研究者。三重県立斎宮歴史博物館で学芸員を務めている方。
勤め先からも想像がつくとおり、伊勢斎宮研究の専門家で、関連著作がいくつもある。当ブログでは中公新書から出ている『斎宮』を以前にご紹介している。
内容はこんな感じ
藤原氏が権力中枢を独占した平安中期以降と異なり、平安前期には驚くほど多様な可能性が存在していた。実名で記録に残る女官たちの活躍。門閥に生れなくても学問で身を立てることができた時代。斎宮と内親王の関係性の変化。そして摂関家はいかにして成立したのか。桓武天皇から『源氏物語』誕生まで、知られざる平安「前期」の200年を読み解いた一冊。
目次
本書の構成は以下の通り。
- はじめに―平安時代は一つの時代なのか?
- 序章 平安時代前期二〇〇年に何が起こったのか
- 第1章 すべては桓武天皇の行き当たりばっかりから始まった
- 第2章 貴族と文人はライバルだった
- 第3章 宮廷女性は政治の中心にいた
- 第4章 男性天皇の継承の始まりと「護送船団」の誕生
- 第5章 内親王が結婚できなくなった
- 第6章 斎宮・斎院・斎女は政治と切り離せない
- 第7章 文徳天皇という「時代」を考えた
- 第8章 紀貫之という男から平安文学が面白い理由を考えた
- 第9章 『源氏物語』の時代がやってきた
- 第10章 平安前期二〇〇年の行きついたところ
- あとがき
平安時代は400年もある!
年代的にいうと平安時代は桓武天皇の平安京遷都(794年)にはじまり、鎌倉幕府が成立する(昔は源頼朝が征夷大将軍となった1192年だったけど、最近は朝廷から守護・地頭設置権を認められた1185年とされることが多い)までの約400年間を指す。
明治、大正、昭和、そして令和を足しても150年少々にしかならないのだから、400年というのがいかに長い時間であるかがわかる。とかく、平安時代といえば、藤原道長や紫式部、安倍晴明らが活躍した11世紀頃を思い浮かべるケースが多いはずだ。しかしこれは平安時代の中期であり、ここに至るまでに200年もの歳月が横たわっている。
本書はあまり知られていない平安時代の前半200年にスポットを当て、どんな政治体制が敷かれ、権力構造や官僚制度はどうなっていたのか?どんな事件が起き、いかにして藤原氏による摂関体制が構築されていったのかを読み解いていく構造となっている。
女官や文人が政治に参画出来た時代
平安時代の初期には、女性が官人として政治に関与できた。平安中期以降の記録では、紫式部だとか、清少納言、藤原道綱の母といった形で、女性の実名は記録されなくなっていく。しかしこの時代には実名で記録に残る女官が多数存在する。悪名ではあるがよく知られているのは平城天皇の愛人だった藤原薬子だろうか。
また、この時代は有力貴族として生れなくても、学問が出来れば高い官位を得ることができた。学者が政治に参加できた時代なのである。その頂点はやはり菅原道真か。学問の家は、道真の失脚後は、菅原と大江の二家に世襲化され、他家の者は排斥されていく。
藤原氏台頭の過程がわかる
平安時代の前期まで、皇后は皇族出身者が大多数を占めていた。しかし藤原氏が次々と娘を入内させ外戚として権力を振るうようになると、次第に皇族出身の皇后は存在しなくなってくる。
嵯峨天皇による院政から、藤原良房の摂政就任。藤原基房と陽成天皇の対立。藤原基経と宇多天皇の間で繰り広げられた権力闘争(阿衡事件)。昌泰の変で菅原道真が政権を追われ、安和の変で源高明(大河ドラマに出てくる源明子さまの父親)が失脚。天皇の力は低下。他氏を排斥した藤原氏の摂関政治がスタートし、後の藤原道長の世へと繋がっていく。
平安前期は藤原氏が権力基盤を確立し全盛期へ至ろうとする勢力拡大の時期だ。本書ではその流れが丁寧に示されているので、この時代にまったく詳しくない人間にとってはとてもありがたかった。
結婚できない内親王たち
藤原氏が娘を入内させ、皇后の地位を奪ってしまうので、結果として皇族の子女、いわゆる内親王たちは結婚が出来なくなってしまう。もちろん臣下に嫁す事例も例外的には存在したようだが、これはあくまでごく一部の話(藤原兼家の父、藤原師輔は、内親王三人を妻にしているのでこれはかなりの特殊例だと思う)。
未婚の皇族女性の落ち着き先としてよく知られるのは、伊勢斎宮や加茂斎院だろう。筆者が斎宮研究の専門家だけあって、このパートはとても充実していて面白かった。加茂神社の雷神信仰を取り込む過程で、加茂斎院が始まったのではないかとする説。ごく一部の時期ではあるが、春日神宮には、藤原氏による春日斎女なる存在が置かれていたという話も興味深かった。
紀貫之と和歌の普及
終盤の章では文化面の変化に言及している。教養として尊ばれた漢詩とは対照的に、和かは趣味人の遊びとされ、出世には繋がらないものだった。筆者は和歌を現代のカラオケに例え、誰でも気軽に参加できる存在であったと説く。それだけに平安社会では公卿層だけでなく、官位の低い下級貴族にもあまねく普及。結果として百人一首に登場する歌い手はあまり身分が高くない貴族も多かったのだとか。
また、この時代では次第にかな文字が普及し、学ぶ機会が与えられず、漢字の読み書きが困難であった女性にも発信のチャンスが増えてくる。こうした動きが、平安中期の『枕草子』や『源氏物語』の登場に繋がっていくのだから面白い。
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