原先生の団地本だ!
2012年刊行。筆者の原武史(はらたけし)は1962年生まれの政治学者。 天皇制をめぐる数々の著作で知られるが、鉄道分野にも造詣が深く、本業の政治思想研究と絡めた『「民都」大阪対「帝都」東京』ではサントリー学芸賞を受賞している。
さいきん原作品にハマっていて、著作を紹介するのは『レッドアローとスターハウス』『滝山コミューン一九七四』に続いて三冊目となる。
この書籍から得られること
- 都市郊外の団地が果たした政治的役割がわかる
- 団地という特異な空間になぜ独自の政治運動が根付いたのかがわかる
- 1950年代後半~1970年代の前半の団地の暮らしがわかる
内容はこんな感じ
戦後の住宅不足を解消するため、日本各地には数多くの団地が建てられた。同じような間取り。ホワイトカラー層中心の住民たち。似たような家族構成。画一的で均質的な土壌が特異な「下からの政治思想」を育んだ。高度成長期に眩しい輝きを放った団地文化の実態を、丹念な調査によって明らかにした一作。
目次
本書の構成は以下の通り
- はじめに 政治思想史から見た団地
- 第1章 「理想の時代」と団地
- 第2章 大阪―香里団地
- 第3章 東京多摩―多摩平団地とひばりケ丘団地
- 第4章 千葉―常盤平団地と高根台団地
- 第5章 団地の時代は終わったか
- 参考文献
- あとがき
- 団地年表
- 索引
本書に登場する団地
最初に本書に登場する団地の位置関係を確認しておこう。番号は書籍内での言及順。地図内の番号とも一致させてある。
- 香里団地(大阪府枚方市)
- 多摩平団地(東京都日野市)
- ひばりヶ丘団地(東京都西東京市)
- 常盤平団地(千葉県松戸市)
- 高根台団地(千葉県船橋市)
本書で取り扱われる団地群は、1950年代後半~1970年代の前半にかけて、日本住宅公団(現、都市再生機構、UR)が建造したものに限られる。公団管理の団地は、自治体による公営住宅と比べて入居するための収入上のハードルが高く(一定以上の収入が無いと入居できなかった)、必然的にホワイトカラー層が住民の中心となった。
空間が「政治思想」を醸成した
公団による巨大団地群では、それまで人が住んでいなかった場所に万単位で住民が押し寄せることになる。こうした団地の多くは、鉄道駅からは離れた場所に建てられていたので、駅へのアクセスにはバスを使わざるを得ない。ようやく駅に着いたとしても、そこからは地獄の通勤ラッシュが待ち構えている。
子育て問題を考えてみても、周辺にはそもそも小学校すら存在しないし、子どもを預けて働くための託児所もない。病院もスーパーも公民館もない。足りないものは勝ち取っていくしかない。何もかも足りない中で、住民たちの間に「政治」の機運が高まっていく。
団地住民は自治会を結成し、鉄道会社に対しては運賃の値上げ反対や、バスの増便を要請。自治体に対しては教育施設の拡充を働きかける。団地という特別な空間が、住民たちの政治思想を形作っていくのだ。筆者はこれを「下からの政治思想」と指摘し、空間が政治を形成する「空間政治学」を提唱している。このあたりは、以前に紹介した『レッドアローとスターハウス』とも内容が被るかな。
特定政党に支配されていく自治会
この時代に巨大団地での政治運動が盛り上がっていた。しかし、それは住民たちの熱意によるものだけではなかった。都市部の郊外地域には、共産党勢力が浸透し、役員の中に党員が入り込むなど、各地で主導的な役割を担った。彼らの中には、そのポジションを利用して市議に立候補する者すら存在した。団地地域での共産党の支持率は、その他の地域と比較して突出して高かったようで、貴重な票田となっていたのだ。
団地は票田になる。この事実は、後に公明党が「団地部」を創設し、積極的に浸透を図ったことからも明らかである(共産党VS公明党の暗闘は凄かったらしい)。ほとんどが同じ年代のホワイトカラー層。多くの家庭が夫婦と子ども二人の核家族、収入も似たり寄ったり。均質化された住民群は、こうした政治勢力にとって格好の狩場でもあったのだろう。
団地の時代の終焉
1970年代も半ばに入ると団地の供給が過剰となっていき、その人気にも陰りが出始める。この時期に建造された団地群は、遠くて(駅から)、高くて、狭いと揶揄され、遂には定員割れするところも出てくる。戦後の住宅不足を解消するという意味では、公団による団地建設は一定の役割を既に果たしてしまっていた。
共産党など、特定政党が主導する自治体の運営も、一般住民の反発を招き、長くは続かなかった。また、団地住民の政治意識は、通勤環境や、教育分野における「不足」への不満から始まったものだけに、次第にその対策がなされていけば、やがて熱も冷めていく。団地住民の政治活動は、あくまでも住環境の不満解消が目的だった。それ以上の政治的活動には興味がない人間が大多数だったのだろう。