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『遅いインターネット』宇野常寛 21世紀の共同幻想論

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「遅い」インターネットがなぜ必要なのか

2020年刊行。筆者の宇野常寛(うのつねひろ)は1978年生まれの作家、評論家。解説は成田悠輔(なりたゆうすけ)が書いている。

宇野常寛のデビュー作は2008年の『ゼロ年代の想像力』。こちらはゼロ年代までのアニメやドラマ、小説などのサブカルメディアをベースにゼロ年代を読み解いた評論集。取り扱う素材がサブカル(というよりはオタク寄り)であっただけに、わたしのような現代思想に縁のない人間でも何故か読んでいた一冊。こちらは、後日改めて再読してご紹介したい。

幻冬舎文庫版は2023年に刊行されている。文庫化に際して新章「分断する社会とより「速い」インターネットの時代への対抗戦略」が追記されている。新章では、コロナ禍やウクライナ戦争などの現実を踏まえ、更に「遅いインターネット」への考察を深めている。

遅いインターネット (幻冬舎文庫)

内容はこんな感じ

インターネットが誰にでも使えるインフラとなった現代。世界は狭くなり、インターネットは速くなった。しかし世界は分断され、ポピュリズムが台頭する。進展するかに見えたグローバル化の流れは、排外主義、自国至上主義の前に大きく堰き止められている。かつての理想が失われようとしているインターネットの世界で、我々は今後どうあるべきなのか。

目次

本書の構成は以下の通り。

  • 序章 オリンピック破壊計画
  • 第1章 民主主義を半分諦めることで、守る
  • 第2章 拡張現実の時代
  • 第3章 21世紀の共同幻想論
  • 第4章 遅いインターネット
  • 解説 成田悠輔
  • 文庫版書き下ろし 新章 分断する社会とより「速い」インターネットの時代への対抗戦略

民主主義、そしてインターネットへの絶望感

タイトルから、最初はインターネットに関するメディア論的な内容かと思っていたのは内緒。実際は、書店に行くと、現代思想の棚に置いてあるような本である。

数ページ読み始めて、これはヤバい。一ミリも理解できないかもと思ったのだが、筆者的に下々のレベルにまでわかるように、相当わかりやすく書いてくれている(のだと思う)ので、ギリギリ主張の輪郭線くらいはつかめたような気がする。慣れないうちは、こういうのは何度も読まないとダメなのだろう。

21世紀に入ってからの民主主義の機能不全。インターネットの普及によるポピュリズムの伸長。本書では両者についての絶望が示され、それらに対して、いかに立ち向かっていくべきかが説かれている。

以下、各章について雑感。

平成という「失敗したプロジェクト」

序章では、平成30年間の総括として、二大政党制への移行の失敗。グランドデザインがないままで進んだオリンピックの誘致。20世紀的な工業社会から、21世紀的な情報社会への転換。グローバルな市場とローカルな国家の対立構造等、本書を読み解く上での前提条件が示される。

バブル崩壊以降、日本社会を覆っている「見えない壁」はいかにして乗り越えることが出来るのか。そのための言葉を手に入れることが本書の目的であると筆者は説く。

インターネットポピュリズムに既存の民主主義は耐えられない

続いての第一章は「民主主義を半分縮めることで、守る」である。

なんともショッキングなタイトルだが、2016年のトランプ大統領の登場、イギリスのEU脱退決議と、ここ数年はグローバル化に逆行するかのような、ナショナリズムの高まり、排外主義への志向が世界中で高まっている。

世界のグローバル化はもはや避けえない流れであると思われたが、未だそれを良しとしない勢力は大きい。それは、シリコンバレーの起業家と、ラストベルトの労働者たちとの間に生まれた巨大な断絶であり、境界のない世界(Anywhere)と、境界のある世界(Somewhere)との壁なのである。

筆者は、「民主主義は原理的に新しい境界のない世界を支持できない」とする。排外的で、ナショナリスティックな人々であるほど、民主主義の数の力にコミットする動機が強くなってしまうのだと云う。

民主主義の暴走が歴史を狂わせた例は第二次大戦を導いたファシズムの台頭を見れば明らかであろう。どうしても民主主義には常に暴走の危機が付きまとうのである。

そこで、筆者は対策として以下の三点を主張している。

1)民主主義と立憲主義のパワーバランスを後者に傾ける

暴走したポピュリズムへの備えとして、立憲主義的な立場を強化すべき。

2)情報技術を用いて正しい政治参加の回路を構築する

市民と大衆の断絶を埋めるべきものとして、その中間に位置する「職業人」に民主主義の重心を動かす力があるのではないか。情報技術を使った、「職業人」の政治参画への道を作れないか

3)「よいメディア」を作ること

インターネットのありかたをもう一度見直し、人間と情報の関係を見直せる「よいメディア」を作る。それには「遅い」インターネットが必要なのである。

モノからコトへ

第二章は「拡張現実の時代」。モノからコトへ。消費社会から情報社会へ。映像の20世紀から、ネットワークの21世紀への転換について語られる。

他人の物語より、自分の体験(SNS)の方が面白いのは自明であろう。誰もがインターネットに気軽にアクセスできるようになった現在では、既成の物語を楽しむよりも、SNSでの自分語りの方が楽しい。

筆者は人の心を動かす4つのカテゴリとして、以下の組み合わせを提示する。

  1. 非日常×他人(20世紀前半の映画やニュース映画) 
  2. 日常×他人(テレビ) 
  3. 非日常×自分(ライブ、祝祭空間)
  4. 日常×自分(生活)

1の(非日常×他人)から、2の(日常×他人)への移行が20世紀に起きた事象。そして、3の(非日常×自分)が2010年代初頭の動き。そして、これからは4の(日常×自分)の切り口に可能性があるのではとしている。

現代の情報技術を用いて、(日常×自分)の領域から、世界に触れている感覚を人々に与えること。この領域からの政治アプローチとして、「遅い」インターネットの必要性を再度主張している。

世界に素手で触れている実感

第二章で説いた、(日常×自分)の領域から、「世界に素手で触れている実感」を持たせること。それにはどうすれば良いのか?

との観点から、第三章では「21世紀の共同幻想論」と題して、かつて吉本隆明の提示した「共同幻想論」の21世紀的な展開について述べていく。

吉本ばななのファンではあっても、彼女の父親の著作は一冊とて読んでいないわたしには、このパートが一番読んでいてキツかった。現代思想を読み解く上では、必読の著作なのだろうね。お恥ずかしい。

「現在の政治(民主主義)は、世界に素手で触れられない人々、古い世界に取り残された人々のインスタントな承認欲求のはけ口として機能している。」とう指摘は、読んでいて暗澹とした気持ちになってくる。

この章の最後で「遅いインターネット」の目的は、「モノに撤退することなく、コトの次元に踏みとどまりながらこのあたらしい、境界のない世界をタイムラインの速度に流されることなく生き得る主体を立ち上げる」であるとする。

これだけ読むと、さっぱり要領を得ないと思うかもしれないが、その詳細については最終章で語られている。

スロージャーナリズムのススメ

第四章はいよいよ「遅いインターネット」である。思考能力、判断能力を失いつつある民衆。同調圧力が高まるばかりのインターネット。この絶望的な状況にたいして、いかなる処方箋が有用であるのか。

最後に筆者は以下のような主張を展開する。

  • 考えるための場を作る
  • 良質な読み物を置く
  • 運動を担うコミュニティを作る

なにもかも瞬時に流れ去ってしまう「速い」インターネットに対して、スローに受けとけて、スローに発信できる場を作りたい。そして読者を育てたい。そのためには「遅い」インターネットが必要なのである、と。

既に、具体的な動きも始まっているようだ。

何もしないで嘆くよりは、小さな一歩でも何かを始めた方が良いはずである。まずは、良質は読み手と書き手を育てていこうとする主張は、地道ながらも大切なことであるのは間違いない。動画配信なども活発に行われているようなのでチェックしてみるつもり。

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