ビズショカ(ビジネスの書架)

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『空気が支配する国』物江潤 日本社会の同調圧力の正体は?

コロナ禍の今だから、読みたい一冊

2020年刊行。筆者の物江潤(ものえじゅん)は1985年生まれ。東北電力退社後、松下政経塾に入り、現在は地元の福島で塾経営をしつつ執筆業もされている方。

その他の近著には新潮新書の『ネトウヨとパヨク』がある。

今回は書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」さんの献本企画に応募して当選。さっそく書籍を送っていただいたので感想を書かせていただく。ご恵投(←使ってみたかったコトバ)頂き誠にありがとうございました。

内容はこんな感じ

日本人の行動を規定する「空気」。時としてそれは法よりも強く作用する。かつての大戦時や、東日本大震災、そして現在の新型コロナウイルスの蔓延。非常時に日本人の行動を縛る「空気」はいかにして生まれ、いかにして作用するのか。大事なことがなんとなく決まる社会。日本の同調圧力の正体を徹底解剖する一冊。

「空気を読む」社会

「空気読めよ!」そう言われたことがある。もしくは自分自身がそう感じたことがある。そんな体験をお持ちの方はおられないだろうか?日本社会では場の空気が重要視されることがしばしばある。

現在の新型コロナウイルス禍の中では、法的な強制力がないにもかかわらず、マスクの着用は義務のように受け止められているし、公共の場でされる大きな声の会話は白眼視される。

筆者は東日本大震災で大きな被害を受けた福島県の出身であり、震災時には「空気を読む」ことを強いられたという。この「空気」とは果たして何なのだろうか?そんな疑問に迫ったのが本書だ。「空気」の本質、その成り立ちと危険性。学校現場や、コロナ禍、ネット社会での「空気論」。更にはいかにして「空気」と付き合っていくべきかを指南してくれる一冊である。

では、以下、簡単に内容をご紹介していきたい。

第1章 空気、この厄介な存在

まず大前提として「空気」の定義化を筆者は試みる。山本七平『「空気」の研究』、山本七平・小室直樹『日本教の社会学』での事例を参照しながら、筆者は

空気とは「あいまいな掟」である

とする。そしてこの掟が出来たことで、同調圧力という名の命令が生まれる。

日本は同調圧力が強い国だとよく言われる。しかし同調圧力自体は外国社会にも当然存在する。ただ海外との違いは、同調圧力が日本では「空気」によって生じる点である。

階級、宗教や民族性などにより、明確な掟が定められている諸外国と比較して、日本では明文化された掟が少ない。ルールがはっきりと定められていないから、仕方なく何が正しいのかを手探りで求めることになる。それが「空気を読む」行為なのだ。

そして、日本社会特有の息苦しさは、何にどれだけ協調すれば良いのか、よくわからないところにある。そう、筆者は説くのである。

第2章 誰が空気を決めるのか

日本ではあいまいに発生する「空気」によって同調圧力が生まれる。ではその「空気」を生み出しているのは誰なのか?その謎に迫るのが第2章である。

日本は民主制ではあるが、民主主義ではないと筆者は強く主張する。日本人は主体性に乏しく、積極的に掟を作っていこうとする姿勢に乏しい。これは古代からの民主主義の歴史があったり、革命によって民主主義を勝ち取った欧米諸国との大きな違いである。民主主義の精神が、日本では未だ成熟していないのだ。

結果として一部のオピニオンリーダーが社会の声を代弁し、それが「空気」を醸成してしまう。この際、専門家の緻密に検証された論理的な主張よりも、扇情的でわかりやすいワイドショーのコメンテイターの発言の方が日本人には響きやすい。

第3章 制御不能の恐ろしさ

この章では「空気」によって人を動かすことのリスクについて語られる。

日本人は「空気」に動かされやすい。だからこそわざわざ法整備をしなくても、「空気」を使うことで、勝手に自主規制をして、行動を制限してくれる。現在のコロナ禍での日本人の対応はまさにそれであろう。政治家としては実にありがたいシステムである。

ただ、一度醸成された「空気」は容易には変えられない。「空気」のもたらすものに欠陥があることが明らかになっても、もはや日本人は立ち止まれないのである。

誰もが無理だと思っているのに実行されて惨憺たる結果を招いた大戦中のインパール作成。安全神話を盲信し、致命的な結果をまねいた福島の原発事故。

部下たちが上長の作り出した「空気」に従うようになると、それは全体の意思となり、上長自身にも止めることが出来なくなる。結果として、誰も望んでいない「空気」がいつまでも日本人を動かしてしまう。

第4章 学校の中は地雷だらけ

続いてこちらの章では、視点を少し変えて、学校の中で作られる「空気」のお話。

スクールカーストという嫌な言葉が定着して久しい。体育会系の部活所属者。生徒会活動や、クラスのムードメーカーなどで目立つ存在。優等生グループ。その他大勢。暗黙の了解の中で決まっていく学校内のポジション。その地位によって発言力や、扱いも変わってくる。そしてTwitterやLINEなどの普及で、学校内の格付けは帰宅後も継続されるのだ。

日本の子どもたちは、スクールカーストが明確化されることにより、今まで以上に「空気」を読むことを強いられている。幼いころから「空気」を読むスキルが鍛えられているので、成長したからと言ってそれをやめるのは難しくなる。

第5章 新型コロナ禍の空気論

ここでは現在進行形のコロナ禍の中で生じている「空気」について語られる。

日本人の現代から「空気」を探る行為を、筆者は現今主義と規定する。現今主義の対義語となるのが伝統主義である。伝統主義は連綿と続いてきた過去から掟を見出すために社会が安定しやすい。一方で、現今主義はその時その時の「空気」に依存するために不安定で、先行きが不透明になる。

現今主義にはメリットもあって、状況が変わった際にあたらしい「空気」を作ることが出来れば、人々は自発的に事態に対応できる。

反面、デメリットとして、「空気」に逆らう者にはペナルティが課される。それは世間からの非難であったり、社会的な制裁であったりと様々だが、実質的に私権を制限するものとして機能する。

第6章 「ネットの正義」の強い副作用

誰もが自由に発言し、意見を述べることができる場所。かつては新しいメディアとして、インターネットは大きな期待を集めた存在だった。

匿名かつ、所属する社会の制約に囚われないインターネットであれば「空気」を読む必要はない。言説が積極的に積み重ねられ、能動的な掟を形成することが出来るのではないか?

そんな期待に反して、現在のインターネットに生じているのは、より深い分断である。Twitterの140文字の制約は、結論のみを提示して、議論に深みをもたらすことが難しい。自ら選んだタイムラインは、自分にとって都合の良い意見ばかりが登場するために、選択的接触の結果としてエコーチェンバー現象が発生する。

一般人の層にまでインターネットが普及したことによって、政治家たちは世論の空気を読みやすくなった。結果として、衆愚の代理人に終始する政治家が出てきてしまう。そんな点にも筆者は警鐘を鳴らしている。

第7章 精神は常に自由である

最後の章では、これまでの実情を踏まえ、「空気」とどのように対峙したら良いのかを考えていく。

「空気」あいまいな掟である。誰が、誰に、どのような、全てが判然としない。しかも動的に変化してしまい、時として暴走さえしてしまう。「空気」はもちろん役に立つことも多いが、自身に危害が及ぶような場合には、「空気」による掟の強制に逆らうことも時として必要になってくる。

大切なのは、立ち止まって自分で考えること。「空気」に流されず、能動的に自分の意見を発していくこと。空気が窮屈なら場を変えてしまえばよいと、筆者は説くのである。

「空気」は読まなくてもいい!

以上、ざっくりと『空気が支配する国』の内容を振り返ってみた。

筆者の言う「空気が窮屈なら場を変えてしまえばよい」は、無論これは簡単なことではない。ただ、「空気」は絶対的なものではない。嫌なら従わない。変えてしまう。そんな考え方を持っておくことは、生き方の幅を広めていく上で重要なことであろう。

安易に「空気」に流されてしまいがちの自分としては、感じるところの多かった一冊である。

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