「鎌倉殿」のその後が知りたくて
大河ドラマの『鎌倉殿の13人』が、自分史上かつてないほどの面白さだったので(それまでのベスト大河は1991年の『太平記』だった)。「その後」を知りたくて本書をゲット。
本書は2022年刊行。筆者の細川重男(ほそかわしげお)は1962年生まれの歴史学者。専門は日本中世政治史、古文書学。東洋大学、國學院大学の非常勤講師。中世内乱研究会総裁。
筆者は、鎌倉幕府に関する著作を多数上梓している。作品リストは以下の通り。
- 『鎌倉政権得宗専制論』(2000年)
- 『鎌倉北条氏の神話と歴史 権威と権力』(2007年)
- 『鎌倉幕府の滅亡』(2011年)
- 『北条氏と鎌倉幕府』(2011年)、後に『執権 北条氏と鎌倉幕府』に改題されて再刊(2019年)
- 『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』(2012年)、後に『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』に改題されて再刊(2021年)
- 『鎌倉幕府抗争史 御家人間抗争の二十七年』(2022年)
- 『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』(2022年)
内容はこんな感じ
承久の乱から二十六年後の鎌倉。三代執権泰時の死後、北条得宗家と、有力御家人三浦氏の間に緊張が高まる。五代執権時頼と、三浦家当主泰村は互いに戦争回避の道を模索するが、三浦氏と因縁浅からぬ、安達氏が蜂起、遂に宝治合戦が始まる。この戦いはいかにして始まり、いかにして終結し、その後どんな影響をもたらしたのか。
目次
本書の構成は以下の通り
- はじめに
- 解説編1:宝治合戦を知るために
- 小説編:黄蝶の夏-鎌倉 一二四七 宝治合戦
- 解説編2:「宝治合戦」その後
解説編1は、宝治合戦に至るまでの経緯や、知っておくべき鎌倉幕府の基礎知識が披露されている。肝心の宝治合戦の顛末は、まさかの小説編となっており、物語形式で200ページ近くもの分量が割かれている。新書の歴史書籍で、小説パートがあるのは珍しい。そして最後の解説編2では、宝治合戦の「その後」、鎌倉がどうなったかが紹介されていく。
宝治合戦の顛末を描く
宝治合戦(ほうじかっせん)は、宝治元(1247)年に起きた、鎌倉幕府の内乱劇である。三代執権北条泰時(やすとき)の存命中は、御家人たちの不満をうまく抑え込んでいたものの、孫である四代執権経時(つねとき)が早逝し、僅か二十歳の弟、時頼(ときより)が五代執権となると、それが怪しくなってくる。
この時の三浦氏の当主は泰村(やすむら)。これは大河ドラマで出てきた義村の息子にあたる人物。泰村には北条家と事を構える気持ちはなかったものの、弟の光村が主戦派でその勢いに引きずられることになる。
更に、三浦氏と仲の悪かった安達氏が関与。安達氏の首魁は、安達景盛(あだちかげもり)。頼朝の最初期からの側近であった安達盛長(もりなが)の息子で、大河ドラマでは二代将軍頼家に愛人を奪われて粛清されそうになっていた人物。
三浦氏は経時の父である時氏(ときうじ、泰時の子)の時代から北条家の外戚の地位にあったが、五代時頼の母親は安達氏の出身であった。宝治合戦は、北条家の外戚の地位を、三浦氏と安達氏が争った戦いでもあったわけだ。
仁義なき最終決戦
さて、本編となる宝治合戦の顛末は、小説形式で描かれている。冒頭には見開きの人物紹介があり、人間関係がわかりやすくなっている。
ちなみに、宝治合戦の歴史的資料は、ほとんどが『吾妻鏡』に由来する。筆者はこの『吾妻鏡』の殺伐とした空気感を最大限効果的に表現する方法として、登場人物の武士たちの会話文を「ヤクザ風」にすることを選択している。
「おンどれ!ブチ殺したらァ」とか「ワレ!コラ!ガキ!誰に向かって、口きィとんじゃ!」「バラしちゃる!」「殺したる!」と、とにかく品がなく、我々が抱いていた、誇り高き鎌倉武士の幻想が打ち砕かれていく。ってまあ、この時代の御家人なんて、中世の暴力装置。力こそがすべて。誰も助けてくれない自力救済の世界だから、これくらいの殺伐さは当たり前だったのかもしれない。
執権政治から得宗専制へ
宝治合戦の結果として、最大の御家人である三浦氏が滅亡した。三浦氏の同盟者であった、千葉秀胤も滅ぼされており、御家人のパワーバランスが大きく変化した。外戚として生き残った安達氏の発言権が増す。しかし、そんな安達氏も、後の安達泰盛の時代に、霜月騒動で滅亡に追い込まれる。
これによって、曲がりなりにも御家人間での一定の合議制が成り立っていた執権体制が終わり、北条家が主要な地位を独占する北条得宗体制が成立する。北条家はここに至るまでに、梶原、比企、畠山、和田、三浦、安達と主要な御家人を全て滅ぼしたことになる。兄の死によって、庶子でありながら若くして執権となった時頼は、北条家の中興の祖とも言える人物だろう。子の吉宗の時代、元寇を戦うための基盤を築いたことなる。