勘定奉行から江戸時代を読み解く
2018年刊行。筆者の藤田覚は1946年生まれ。東京大学の史料編纂所の教授を2010年に定年で退官し、現在は同大の名誉教授。専門は日本近世史。江戸時代に関する著作が20冊ほど刊行されている。
内容はこんな感じ
江戸時代に活躍した勘定奉行は、財政だけでなく、農政、交通、司法など幕府の幅広い業務を主管する重要な役職であった。求められる能力の高さから、勘定奉行は旗本だけでは人材がまかなえなかった。御家人でも実力さえあれば、たたき上げで勘定奉行に昇進できるシステムが存在していた。江戸時代の著名な勘定奉行らを紹介しつつ、時代時代における幕府の財政事情を読み解いていく一冊。
目次
本書の構成は以下のとおり
- 第1章 勘定奉行は幕府の最重要役人
- 第2章 御家人でも勘定奉行になれる―競争的な昇進制度
- 第3章 財政危機の始まり―貨幣改鋳をめぐる荻原重秀と新井白石の確執
- 第4章 行財政改革の取組み―享保期勘定所機構の充実と年貢増徴
- 第5章 新たな経済財政策の模索―田沼時代の御益追求と山師
- 第6章 深まる財政危機―文政・天保期の際限なき貨幣改鋳
- 第7章 財政破綻―開港・外圧・内戦
勘定奉行って何をする人?
江戸時代で「奉行」と言えば町奉行であろう。一方で、勘定奉行はどうだろうか?時代劇で登場する際は多くの場合が悪役である。その実態を知る者は少ないのではないだろうか。
勘定奉行及び、勘定奉行が支配する勘定所は江戸幕府の中でももっとも重要な機関であった。勘定所は400万石を超える幕府領を支配し年貢の徴収を行う。そして、生産、流通、金融に関する経済政策を立案、実行に移していた。更には、五街道等の主要街道のの管理、司法面でも多大な裁量権を有していた。管轄する業務が多すぎる!
御家人からでも勘定奉行になれた!
興味深いのは、勘定奉行の非キャリア比率である。歴代の勘定奉行の経歴を辿ってみると、旗本出身ではない、御家人、もしくは幕臣ですらない人物から勘定奉行になり上がった事例が全体の10%を占めている。これを、現代の事務次官に置き換えてみれば、いかに型破りなことであるかがわかる。
江戸時代では、実力さえあればたたき上げで勘定奉行に就任することが出来たのである。身分の別が厳しく管理されていた江戸幕府においても、これは例外的な部分であるらしい。
それでは、以下、本書『勘定奉行の江戸時代』について、各章を簡単に振り返っていきたい。
勘定奉行は幕府の最重要役人
まずは勘定奉行が働く、勘定所の基本構造から。時代によって多少の変動はあるのだが、江戸中期以降は、以下のような構成となっていた。
- 勘定奉行>勘定頭>勘定組頭>勘定>支配勘定
また、勘定奉行に昇りつめるまでの出世コースとして、以下の三つが事例として紹介されている。
- 目付コース(エリート旗本の出世コース)
- 勘定書やそれ以外の財政関連職から
- 勘定所の末端職員から成り上がる
大身の旗本などは1の目付コースで、目付職や長崎奉行など、他の有力役職を経由して、最終的に勘定奉行になる。
2は、勘定所内部からの内部昇進組。
3は、勘定所内部からの内部昇進の中でも、更に低い出自(御家人や幕臣以外)からの成り上がり組である。
御家人でも勘定奉行になれる
続いて、具体的な勘定奉行が登場する。
一人目は、 遠山景普(とおやまかげみち)。いわゆる「遠山の金さんのパパ」にあたる人物である。景普は、1000石取りの永井家の四男として生まれ、500石取りの遠山家に養子に出され、36歳で小姓組番士に初就任。以後、徒頭→目付→長崎奉行→作事奉行と経由して、68歳でようやく勘定奉行になっている。景普は目付コースにあたるが、部屋住みの期間が長く、出世コースに乗るのが遅かったため、高齢での勘定奉行就任となっている。
二人目は「遠山の金さん」こと、遠山景元である。こちらは32歳で西丸小納戸役→西丸小納戸頭取格→西丸小納戸頭取→小普請奉行→作事奉行と経由して、46歳の若さで勘定奉行に就任している。景元はその後も栄達を続け、町奉行、大目付へと出世していく。
三人目は幕末の勘定奉行、川路聖謨(かわじ としあきら)である。聖謨は豊後日田代官所の役人の子として生まれており、そもそもが幕臣の生まれではない。川路家へ養子として入り、以後、支配勘定→勘定→勘定組頭→勘定吟味役→佐渡奉行→奈良奉行→大坂町奉行と経由して、勘定奉行となっている。
その他にも、100俵取りの御家人から成り上がった細田時以(ときより)、150俵取りの御家人から成り上がった杉岡能連(よしつれ)などの事例が紹介されている。
歴代の勘定奉行は213人を数えるが、御家人からの昇進事例が23人。全体の1割ほどの比率を占めている。
なお、勘定奉行は一名ではない。勝手方(財政担当)と、公事方(裁判担当)各二名で、計四名体制で運営されていた。
財政危機の始まり
第三章以降は勘定奉行職を通して、江戸幕府の財政史を振り返っていく。
四代将軍家綱の時代に入ると、日本各地の鉱山収入が激減、更に明暦の大火の復興には莫大な費用が必要となり、幕府財政は危機的状況に陥る。
この時代に登場する勘定奉行が荻原重秀(おぎわらしげひで)である。重秀もまた、200俵取りの御家人からの成り上がり組だ。重秀は慶長金銀を、質の低い元禄金銀に改鋳することで莫大な差益を生み出す。貨幣改鋳は市場に出る貨幣の量が増えるので深刻なインフレを引き起こす「もろ刃の剣」である。
しかし六代将軍、家宣の時代、重秀は時の権力者新井白石と対立し失脚。元禄金銀は、質の高い正徳金銀に再改鋳されている。
行財政改革の取り組み
続いて、八代将軍吉宗の時代。享保年間の江戸幕府は深刻な財政危機に陥っており、幕臣への俸禄すらも支払えない状態になっていた。倹約、緊縮策、新田開発、年貢徴収法の工夫、御暇(リストラ)などの対策が打ち出されるが、大きな改善にはつながらない。
ここで、定免(じょうめん)法から、有毛検見(ありけみ)法への転換が行われ、年貢収入が激増する。そして登場するのが勘定奉行、神尾春央(かんおはるひで)である。春央も200俵から始めて、1,500石の高禄を勝ち取った成り上がり組である。「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」の言葉で知られる人物。百姓に対する苛斂誅求とも言える、過酷な取り立てを命じた。
新たな経済政策の模索
続いて、田沼意次(たぬまおきつぐ)の時代。幕府の財政は状況は芳しくなく、御益追求のために様々な施策が試みられる。
田沼時代には、小野一吉(おのくによし)、石谷清昌(いしがやきよまさ)、松本秀持(まつながひでもち)の三人の勘定奉行が登場する。幕府は、印旛沼開拓、ロシア貿易と蝦夷地開拓、全国御用金令、貸金会所計画と新たな施策を積極的に打ち出す。しかしこうした企ては全て失敗に終わり、田沼の失脚の遠因となっていく。
面白いのは、この時代、勘定所の役人たちがこぞって「御益」追求のために、多種多様な献策をし始める点である。勘定所では、出自が低くても実績を出せば重用される。運が良ければ勘定奉行だって夢ではない。かくして、ワンチャン狙いの、微妙な経済政策が多数提案され、経済音痴の老中や諸大名を困惑させていくことになるのだ。
深まる財政危機
田沼意次の失脚後、松平定信による寛政の改革が始まるが数年で頓挫。文化文政期、老中首座には水野忠成が就任する。
禁断とされてきた貨幣改鋳が再び実施される。これが、文政の貨幣改鋳、天保の貨幣改鋳である。金銀を市場から回収し、質を下げた貨幣に改鋳しなおすことで、差分をかすめ取る。国家がやるにしては相当にお粗末な施策だが、打ち出の小槌のような手法になっていたのだろう。江戸期後半の幕府は、改鋳を繰り返す。
貨幣を幕府に差し出して交換すれば質の悪い貨幣が戻ってくる。となれば、商人たちは当然交換を渋る。この時代になると、新旧貨幣の交換はスムーズに進まなかったようで、期間内に効果したら10%アップ!とか、交換時の交通費を支給します!といったキャンペーンが展開されていた。これは笑えない事態である。
財政破綻
幕末に至り、遂に幕府の財政は破綻する。開国によって大量の金が海外に流出。幕府は金銀比価の国際標準とも言える、万延貨幣改鋳を決行し対応しようとする。しかし、軍備の近代化、長州征伐、将軍の上洛等で、金はいくらあっても足りない状況である。
慶応年間に入るととうとう、改鋳益金が減少に転じる。改鋳の原料が底をついてしまったのである。幕府は、領民に献金を命じ、金札(紙幣)の発行、外国からの借款にまで手を出していく。もはや末期状態で、こう考えると財政面でも江戸幕府は詰んでいたのだとわかる。
幕末期の勘定奉行は川路聖謨だが、優秀な聖謨の才幹をもってしても幕府財政を立て直すことは出来なかった。勘定所の限界を知らしめるような形で本書は幕を取じる。
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