コロナ禍の今を描く酒井順子最新作
2020年刊行。筆者の酒井順子(さかいじゅんこ)は1966年生まれのエッセイスト。第一作は1988年の『お年頃 乙女の開花前線』。出世作は何といっても2003年の『負け犬の遠吠え』であろう。
講談社文庫版は2022年に刊行されている。
本作は、講談社のwebメディアmi-mollet(ミモレ)に2019年1月~2020年6月にかけて連載されていたエッセイをまとめたもの。現在でも読めるようなので、こちらで読んでいただくのも良いかと思われる。書籍化したのに全文掲載されたままとは、講談社も太っ腹だな。酒井順子クラスの書き手になると、ファンがついているからそれでも本は売れるのかな?
この書籍から得られること
- バブル世代の「いま」がわかる
- 50代に訪れるさまざまな「衰え」についてわかる
内容はこんな感じ
バブル世代も50代に突入。もう中年ではなく中高年である。心も体も若いままであるかに思えたこの世代にも老いは忍び寄る。既に孫を持つ者も居れば、未だ独身を謳歌する者、親の介護に苦心する者、同世代間でもそのライフスタイルはさまざまである。人気エッセイストが世に問う、バブル世代「令和の50代」の生きざまとは?そのリアルな姿を描き出す。
目次
本書の構成は以下の通り。
- 三度目の成人式
- 若見せバブル崩壊
- 働くおばさん
- 「懐かしむ」というレジャー
- 昭和と令和
- 感情は摩耗するのか
- 母を嫌いになりたくないのに
- 朽ちゆく肉体、追いつかぬ気分
- 性人生の晩年を生きる
- 五十代独身問題
- 再会と再開の季節
- 初孫ショック
- 「エモい」と「無常」
- セクハラ意識低い系世代
- 自分がえり
- 三つの「キン」
- コロナと五十代
- 好きなように老けさせて
バブル世代も50代に!
1966年生まれの酒井順子は、バブル世代を代表する書き手との印象が強い。ちなみに、バブル世代はWikipedia先生によると以下の年代が該当する。
生年ではなく、就活を行った年代で区分されるところが、空前の就活売り手市場を体験したバブル世代の「らしい」ところである。
バブル世代は、バブル景気(内閣府景気基準日付第11循環拡張期、1986年〈昭和61年〉11月から1991年〈平成3年〉2月)による売り手市場時(概ね1988年〈昭和63年〉度から1992年〈平成4年〉度頃)に就職活動を行い、入社した世代をさす。
酒井順子は大卒なので、彼女に合わせると生年的には1965年~1970年生まれが該当する。ちなみに、わたしもこの年代に該当するのだが、恥ずかしながら留年しまくっているので、就活の際にはバブルが終わっていた(笑)。よって、あまりバブル世代という認識はない。
中年から中高年、初老に入るお年頃
バブル世代は気が若く。何事も積極的で消費にも前向き。アンチエイジング大好きで、体を動かすのが好き。そんな印象があるが、彼らもさすがに50代に入れば身心共に衰えが出てくる。ビジネスパーソンであれば、そろそろ定年が視野に入ってくる。家庭では老親の介護の問題があるし、まだまだ家のローンや、子どもの学費を稼がなくてはならない方も多いだろう。
本書では、バブル世代を生きたこの世代が、50代に突入するにあたり直面する、心と体の変化を綴っていく。「若見せバブル崩壊」「感情は摩耗するのか」「性人生の晩年を生きる」「五十代独身問題」「初孫ショック」「セクハラ意識低い世代」こうしたタイトルを読むだけで、該当世代にはザクザク刺さってくるものがないだろうか?
そろそろ大人になったかな?
大人と呼ばれる年代の方なら納得いただける方もいるかと思うのだが、自分が子どもの頃に見ていた50代って、ものすごく成熟した大人に見えてはいなかっただろうか?
翻って自分を振り返ってみた時に、到底その域には及んでいない。まだまだ未熟で幼稚。いつまでも若者気分が抜けないと思われる方は多くないだろうか?酒井順子はわたしたちの世代は「薄い」のではないかと評している。
精神的にはまだまだ若いつもりでいるのに、それでも肉体は容赦なく老化していく。こればかりはどんな人間でもとどめることはできない。それが50代である。
筆者はそろそろ老いを無理して隠さなくても良いのでは?と説くのだが、自分に当てはめてみるとなかなかに深い問いに思える。
コロナ禍を生きる
本書には2020年6月連載分までが収録されているため、現在のコロナ禍の世界も描かれている。新型コロナウイルスは、若者は感染したとしても軽症で済むことが多い。気をつけなくてはいけないのは高齢者と持病持ちである。
これを聞いて、「ああ自分は大丈夫だ」と思うか「これはいかん気を付けなければ」と思うか、見事に分かれるのが50代という年齢なのではないか。50代は狭間の年代であるように思えるのだ。
まだまだ自分を「若者」カテゴライズしがちなバブル世代だが、50代は全くもって若者には該当しない。そんな脳内認識年齢と、実年齢の齟齬を思い知らせてくれるのがコロナ禍の時代であるのかもしれない。
外出機会が激減し、自宅に籠ることが多くなった筆者は、志村けんの死に衝撃を受け、自らの死についても考えるようになる。コロナ禍の現在は、家で過ごす時間が増えたことで、己の内面を見つめなおす良い機会でもあるのだ、と。
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