ビズショカ(ビジネスの書架)

ビジネス書、新書などの感想を書いていきます

佐伯有清『高丘親王入唐記』~『高丘親王航海記』と共に読みたい一冊

本ページはプロモーションが含まれています

数少ない高丘親王研究本

2002年刊行。筆者の佐伯有清(ありきよ)は1925年生まれの歴史学者。北海道大学、成城大学の教授を歴任。2005年に他界されている。

高丘親王入唐記―廃太子と虎害伝説の真相

『高丘親王入唐記』の入唐は(にっとう)と読む。「入⇒にふ」の促音化なのか?、当時の中国語の音を日本に持ち込んだ際の名残りなのか?、円仁の『入唐求法巡礼行記』とか、入唐八家なんて歴史用語もあるけど、いずれも読みは(にっとう)である。

この書籍から得られること

  • 史実としての高丘親王の生涯を知ることが出来る
  • 澁澤龍彦の『高丘親王航海記』をより楽しく読めるようになる

内容はこんな感じ

高丘親王は平城天皇の皇子として生まれ、一時は皇太子に指名されるも、薬子の変による父帝の失脚を受け廃太子となる。その後、仏門に入り空海の高弟となり阿闍梨の位にまで上り詰める。東大寺毘盧遮那仏の修復を手掛けるなど、数多くの実績を上げるが、晩年に至り、入唐求法を志し大陸に渡る。数奇な人生を送った親王の足跡を歴史史料から丹念に読み解いていく。

目次

本書の構成は以下の通り

  • 高丘親王から真如親王へ
  • 超昇寺の創建と真如親王
  • 再度の大仏開眼と真如親王
  • 入唐求法に向けて
  • 真如親王の入唐求法
  • 伝説と史実との狭間

高丘親王入唐記ざっくりマップ

高丘親王航海記ざっくりマップ同様に、親王の入唐経路を雑にマップ化してみた。だいたいこんな感じ。大陸は広大なだけに、明州から入って、長安に到達するだけでも二年余の年月を要している。

澁澤龍彦の『高丘親王航海記』の副読本としておすすめ

先日別ブログで、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』をご紹介した。

その後、高丘親王についてもっと詳しく知ることができる書籍は無いものかと探してみたが、これがほとんど見つからない。 唯一発見したのが本書『高丘親王入唐記』である。

澁澤龍彦の『高丘親王航海記』は唐土に渡った親王が、天竺を目指して旅立ち、異郷の地に没するまでを描いた幻想小説だった。一方、『高丘親王入唐記』はその前段階とも言うべき、生誕から唐に渡り広州から天竺に旅立つまでを、歴史学の視点から追いかけた一冊となっている。

生誕、立太子から薬子の変による廃太子事件。仏門に帰依してからは、空海の高弟となり、東大寺毘盧遮那仏の修復に携わる。そして、仏法の真理を求めんと唐の都長安を目指す旅の過程と、本書では高丘親王の生涯を概観することが出来るように構成されている。

特に興味深く読んだのは以下の三点。

「発見」された高丘親王

現代人において、高丘親王の知名度は皆無と思われるが、かつてはそうではなかった。親王は戦前の国定教科書に登場しているのである。親王は日本人として最初期に東南アジアに足を踏み入れた日本人であり、山田長政と同様に、当時の日本の南方進出を肯定し、戦意高揚を図るための一助として「発見」された偉人だったのだ。

『高丘親王航海記』を読んだ際に、よくもまあこれだけマニアックな歴史上の人物を見つけてきたなと思ったものだが、澁澤龍彦は1928年生まれのバリバリの戦前派である。それ故に、戦前生まれの教養人としては、高丘親王は知っていてあたりまえの存在であったのかもしれない。

「巧思の人」としての高丘親王

斉衡2年(855年)、大地震により東大寺大仏の仏頭が落ちる事件が発生する。造立から100年を超え、毘盧遮那仏は相当傷みが進んでいたらしい。当然修復作業をしなければならないのだが、莫大な費用がかかる巨大プロジェクトの責任者を高丘親王が務めている。この時の親王は、公式行事にありがちな、お飾りに貴人を招いた名誉職的な役どころではなく、実質的な責任者として全体の進行を差配していた。メッチャ有能な人物だったわけである。

当時の文献には「巧思の人」として、親王の有能さが讃えられている。天平年間に大仏の造立に尽力した行基。そして源平の争乱で焼け落ちた東大寺を再建した重源。彼らと並んで、親王の名は東大寺の歴史に刻まれているのである。

「虎害」に遭った高丘親王

親王は天竺へ渡る過程で、途中の羅越国(現在のシンガポールあたり)で虎に襲われて命を落としたとされる。しかしこの記述が初めて現れるのは、没後三百年以上を経た後、鎌倉時代の仏僧慶政の仏教説話集『閑居友』なのである。

そもそも親王の死去の報は、元慶5年(881年)に入唐僧の中瓘がもたらしているが、この際には「逆旅に遷化す」とだけあり、具体的な死因には触れていない。つまり、親王が羅越国にて虎害によって亡くなったというのは、同時代の史料が無く、あくまでも伝説の域を出ないのだ。

人食い虎にまつわる伝承、口承の類としては、以下の二つのエピソードがよく知られており、多くの類例があることと思う。

1)偉人が自身の威徳により人食い虎を馴伏し退去させる
2)偉人が餓えた虎の命を救うためその身を投げ出し虎に分け与える

これらはどちらも偉人の徳を讃える内容となっている。しかし、『閑居友』で紹介される親王の死は上記の1)2)いずれでもなく、単に虎の被害を受け、あえなく喰われ、亡くなったという形になっている。

なお 『閑居友』の親王エピソードでは、虎害に遭う前の話として、菩薩の化身であった餓えた旅人に、親王が持っていた三つの大柑子のうち、一番小さいものしか分け与えなかったという話が書かれている。

つまり、親王は「悪報を得る報い」として、虎害で命を落としており、遙か異邦の地に没した偉人を悼むというよりは、因果応報譚の一つとして扱われているのである。これは、相応の実績を残した親王の立場を考えるとかなり酷い扱いではないだろうか。三百年の年数を経ることで、高丘親王への見方が変わって来たのか、それとも 『閑居友』を書いた慶政自身の思想が反映されているのかは気になるところである。

ちなみに、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』では、澁澤独自の「虎害」の解釈がなされており、親王の最期に対して、名誉回復の措置を図っている。澁澤龍彦にとっての高丘親王は、死を目前に控えた自身の姿を投影したものであっただけに、 『閑居友』描くところの哀れな末路は採用出来なかったのではないかと思われる。

高丘親王年譜

最後に、波乱に満ちた生涯を送った、高丘親王の足跡を簡単にまとめてみた(今後、もう少し書き足すかも)

延暦18年(799年) 平城帝の第三皇子として誕生
大同4年(809年) 叔父、嵯峨天皇の皇太子に
大同5年(810年) 薬子の変。平城太上天皇の失脚に連座し廃太子に
弘仁13年(822年) 出家、真如と名乗る。
承和2年(835年) 空海死去、埋葬に立ち会う
斉衡2年(855年) 東大寺大仏修復の検校を務める
貞観3年(861年) 入唐求法を志し
貞観4年(862年) 入唐
貞観6年(864年) 長安に到着
貞観7年(865年) 天竺へ向けて旅立つ、死去
元慶5年(881年) 親王が羅越国にて虎害によって亡くなったことが伝えられ

平安時代関連ではこちらもおススメ