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『壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分』尾脇秀和 身分制度の常識を覆す

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江戸時代の秩序観を知る一冊

2019年刊行。筆者の尾脇秀和(おわきひでかず)は1983年生まれ。神戸大学経済経営研究所の研究員。佛教大学の非常勤講師。専門は日本近世史。

壱人両名: 江戸日本の知られざる二重身分 (NHK BOOKS) (NHKブックス 1256)

その他の著作に、2014年の『近世京都近郊の村と百姓 』、2018年の『刀の明治維新: 「帯刀」は武士の特権か?』、2020年の『近世社会と壱人両名ー身分・支配・秩序の特質と構造― 』がある。

内容はこんな感じ

ある時は百姓、またある時は武士である。町人なのに百姓。武士なのに町人。厳格に固定化されていたかに見える江戸時代の身分制度だが、実際には多くの例外が存在していた。二重身分はいかにして発生し、幕府はどうしてこれを黙認したのか。実在の歴史史料を紐解きながら、「壱人両名」の実像に迫っていく。

目次

本書の構成は以下の通り。

  • 序章 二つの名前をもつ男
  • 第1章 名前と支配と身分なるもの
  • 第2章 存在を公認される壱人両名―身分と職分
  • 第3章 一人で二人の百姓たち―村と百姓の両人別
  • 第4章 こちらで百姓、あちらで町人―村と町をまたぐ両人別
  • 第5章 士と庶を兼ねる者たち―両人別ではない二重身分
  • 第6章 それですべてがうまくいく?―作法・習慣としての壱人両名
  • 第7章 壊される世界―壱人両名の終焉
  • 終章 壱人両名とは何だったのか

壱人両名とは?

壱人両名(いちにんりょうめい)とは聞きなれない言葉だが、一人の人間が二つの名前と身分を使い分けていた状態を指す。

例えば、江戸時代に、

  • 公家の正親町(おおぎまち)三条家に仕えた、公家侍の大島数馬(おおしまかずま)は、京都近郊の百姓、利左衛門(りざえもん)と同一人物であった。

彼は侍でありながら、百姓でもあった。出仕する際には大小二本の刀を腰に差し、地元に戻れば農作業に精を出す。こんな二重身分状態が、当時は各地で発生していたというのである。

本書では、史料を元に豊富な実例を示しつつ、その発生事情を考証していく。それでは、以下、各章の内容を簡単に触れておきたい。

第一章 名前と支配と身分なるもの

この章では、本書を理解するうえで大前提となる「支配」の概念が示される。「支配」と聞くとあまり良いイメージを持たないかもしれないが、当時のニュアンスでは「管轄」と同義と考えてよいようだ。

町人は町奉行の「支配」にあるし、百姓たちはそれぞれの地域の「支配」に所属している。武士たちはそれぞれの役職や、所属部署に「支配」される。どの集団に属しているのか、誰の支配なのかが大事。江戸時代は、超縦割りの「支配」社会であり。横のつながりはほとんどない。この超縦割りの「支配」社会こそが、壱人両名の発生原因となっていく。

そしてもう一つ重要なのが、宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)の存在である。本来はキリスト教禁教に伴う、信仰調査として始まったものだが、その後、戸籍としての機能を持つようになる。この人別に記載されることで、百姓や町人はどこの「支配」に属しているのかが明らかになるのである。

第二章 存在を公認される壱人両名

壱人両名の二重身分が発生し始めたのは18世紀の半ば以降とされている。筆者は壱人両名についても、さまざまな形態があることを示してみせる。その分類は以下の通り。

  1. 両人別(一人の人間が二重の「支配」下にある)
  2. 秘密裡の二重名義使用
  3. 身分と職分による別名使用

1と2は違法状態。3は適法の範囲内。この章では上記の3の事例が登場する。

  • 町人播磨屋新兵衛は、医師としては山本玄蕃と名乗り活動していた

こちらは「身分と職分による別名使用」であるから問題ないとの見解である。当該職分として活動する時にのみ、特別な別名を名乗る。これは現代でも芸能の世界ではよくある話であり、理解がしやすい。

二つの「支配」系統に跨る事例としては、一般の町人が、町奉行以外の「支配」から御用を命じられた場合を挙げている。この場合、通常時は町人として、町奉行の「支配」を受けるが、御用を務める際は、武士としての「支配」に属することになる。

武士になれるのならば武士にだけ「支配」されていれば良いのではないか?と思いがちだが、武家の薄給では生活はなかなか成り立たない。元が裕福な商家であればなおさらである。このような状況下で、壱人両名 は発生していく。

第三章 一人で二人の百姓たち

第三章では、同一人物が百姓として二つの名前を持っていた事例が登場する。第二章でいうところの1のケースである。

  • 武蔵国久米原村は村内を三人の領主が「支配」する。相給の村であった。この地で、旗本細井家知行下の百姓源四郎は、米津藩領分下の八郎右衛門と同一人物であった。

これは古くからの慣例として続いてきたものが、人別による「支配」が厳格化されていく中で問題視されるようになったパターンである。

本来であれば、どちらかに統一してしまえば良いのではと思いがちである。両人別は百姓の頭数を維持したい村の意図で起こる。村としては年貢の負担があるので、百姓の数は一人として減らしたくない。そんな事情もあったようだ。

第四章 こちらで百姓、あちらで町人

第四章は、百姓と町人の壱人両名事例が紹介されている。

  • 近江の百姓、藤兵衛は、遠く離れた松前の地では町人、蛭子屋半兵衛を名乗っていた。

近江商人は、本来は百姓身分なのだが、商業地では町人として活動。その際に店名前(たななまえ)を名乗った。この店名前は後に固定化し、株、名跡として継承されていく。〇〇屋〇〇兵衛という名跡が、代々受け継がれていくわけである。名跡は売買されることも多く、継承は必ずしも血縁者に限らない。

店名前は、個人名でもあるし、企業、経営体の名称でもあるのだ。これは、無関係の第三者から見た場合、まったく判別はつかないだろう。なんともややこしい話だ。

第五章 士と庶を兼ねる者たち

第五章で描かれるのは、百姓、もしくは町人が武士身分を兼ねる事例である。

  • 八王子千人同心の小峯丹次は、居住する小山村では百姓藤兵衛でもあり続けた。
  • 唐津藩士の杉本伝次は、愛人宅を借り受けるために町人三味線弾き伝次を名乗った。

町人、百姓と異なり武士には人別帳に当たるものが存在しない。武士はそれぞれの主家に「支配」されていたことになる。

そもそも人別帳に武士は載っていないので、「支配」の縦割り運用の慣例もあって、通常であれば壱人両名がバレることはほとんどなかった。ただ、当事者が別件で犯罪を起こすなど不祥事が発生した時に、壱人両名状態であることが問題視され、処罰が行われることが時々あった。

なお、百姓が武士になること自体は罪でない。必要な手続きを経ずに、二重身分化したことが罪とされている。

第六章 それですべてがうまくいく

これまでのまとめとして、壱人両名が発生原理として、筆者は以下の理由を挙げている。

縦割りである各「支配」の管轄・秩序を保ちながら、「支配」をまたぐ各人の活動を表向き問題なく実現させるための方法であった、という点である。

『壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分』p197より

壱人両名は、硬直しがちな縦割りの「支配」社会において、いわば必要悪であった。潤滑油的な役割をも壱人両名は担っていたのではないかと考えられる。

19世紀に入ると、百姓株や、商家の名跡、御家人や旗本の株さえもが、礼金目当てで積極的にに売りに出されていくようになる。壱人両名も、更に増加していったに違いない。

筆者はこうも書いている。

壱人両名による名前の使い分けは、現実の多様な活動と「支配」側の把握との矛盾をうまく解消するためのものであったから、やがてこれらは表向き、何らかの支障により発覚しない限り、処罰されないようになっていったのである。

『壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分』p236より

幕府としても、当人が表立った悪さをしない限りは、この事態を黙認していたようで、現状がある程度優先されていたようだ。

第七章 壊される世界

第七章は、江戸時代が終わり、明治維新を迎えて壱人両名はどうなったが示される。

江戸期を通じて、壱人両名は建前上は違法なのだが、一定の合理性があり黙認されていた。しかし、明治政府が国家によって国民を一元支配する時代に入ると、そうもいかなくなってくる。地域別にバラバラに作られていた人別帳が廃され、近代的な戸籍が整備されていく。

更に大きな変化として、身分制度そのものが解体され、どんな人間でも商売が出来るようになった。これによって、わざわざ壱人両名の状態を維持する必要が失われてしまったのである。

終章 壱人両名とは何だったのか

壱人両名の存在意義について、筆者はこう書いている。

真実なるものは、平穏な状態を犠牲にしてまで、強いて白日の下に晒される必要はない。事を荒立てることもなく、世の中を穏便に推移させることこそが最優先されるべきであり、秩序は表向きにおいて守られていればよい。

『壱人両名 江戸日本の知られざる二重身分』p239より

建前は建前として立てておきながらも、現実に合わせてうまく調整してしまう。江戸時代ならではの秩序の在り方が、壱人両名という存在を登場させたのであろう。この部分は、日本人的には現代でも通じる部分があるのではないかと思われる。

逆に考えると、日本人的な「ほどほどにうまくやりすごす」処世の知恵は、江戸時代の時点で既に確立されていたのだなとも感じるのである。

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