コロナ時代の文学の先鞭となるか
2020年刊行。筆者のパオロ・ジョルダーノ( Paolo Giordano)は1982年生まれのイタリア人。
もともとは物理学者であったが、2008年に上梓された『素数たちの孤独』がベストセラーとなり、以後、作家として活動している。
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本書は、2020年の2月末から3月末にかけて、新型コロナウイルスが猛威をふるったイタリア、ローマ在住であった筆者によって書かれたエッセイ集である。全126頁。27編が収録されているが、いずれも短いテキストなので、一時間程度でさっと読める。
おススメ度、こんな方におススメ!
おすすめ度:★★★(最大★5つ)
新型コロナウイルスが蔓延する時代の空気感を知っておきたい方、感染症が人間関係にもたらした影響について知りたい方、コロナ後の時代がどうなるのかを知りたい方におススメ。
内容はこんな感じ
2020年春。新型コロナウイルスの蔓延により非常事態宣言が発出されたローマ。医療体制が崩壊し、多くの人々が犠牲となっていく中、人々は何を大切にし、何を諦め、そしてどう生きていくべきなのか。コロナの時代、そしていずれ訪れるであろうアフターコロナの時代、人間の関係性はどう変化していくべきなのか。
デカメロン以来の感染症文学の流れ
ジョヴァンニ・ボッカッチョによる『デカメロン(Decameron)』は、14世紀、ペスト禍のフィレンツェで、疫病から逃れるために郊外に疎外した10人の男女が、暇つぶしで語り合った物語をまとめたものである。疫病が蔓延する時代では、いつの時代も自宅で引き籠るがことが最大の防衛策だったのであろう。
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行動を制限された状況が、人々にこれまでになかった思索の時間をもたらす。奇しくも『デカメロン』から700年近く後、同じく疫病流行下のイタリアから『コロナの時代の僕ら』が世に出てくるのはなんとも奇妙な符合と言えるかもしれない。
筆者は云う。
僕たちは日常の中断されたひと時を過ごしてる。
それはいわばリズムの止まった時間だ。歌で時々あるが、ドラムの音が消え、音楽が膨らむような感じのする、あの間に似ている。学校は閉鎖され、空を行く飛行機はわずかで、博物館の廊下では見学者のまばらな足音が妙に大きく響き、どこに行ってもいつもより静かだ。
僕はこの空白の時間を使って文章を書くことにした。
『コロナの時代の僕ら』p9より
非日常の空気感は、当事者がその瞬間に書き留めておかないといずれは消えてしまう。その点で、本書は十分に意義にあるものだろう。今後多数登場するであろう「コロナ時代」の文学の先駆となる作品ではないかと思われる。
理系作家が見たコロナ時代の世界
筆者のパオロ・ジョルダーノは、作家であるとともに、物理学の博士号を持つ理系の高学歴者である。それだけに、未曽有の非常事態の中でも、その筆致は常に冷静であり、理性的である。
コロナ感染を警戒する筆者は、友人とのキスやハグを止め、率先して外出を控えていく。コミュニケーションの深さが、日本人に比べて遥かに濃密なのではないかと思われるイタリアにあって、こうした行動を取るのは相当な勇気が必要だったのではないか。周囲では変人扱いされてそう。
感染症が猛威を振るう世界では、人々は時に疑心暗鬼になり、他人を信じられなくなり、コミュニケーションは希薄化する。感染拡大が続いていく中で、次第に文章の切迫感が高まっていくのがわかり、同時代人としてちょっとだけ親近感が湧いてきたりもする。
コロナ後をどう生きるか
この作品で一番読み応えがあるのは、実は著者あとがきの「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」である。
ここで筆者はコロナ後にいちはやく目を向けている。
すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか。
『コロナの時代の僕ら』p109より
として「僕は忘れたくない」から始まる一連の警鐘は十分に示唆に富むものと思われる。
ただ、人間はなにごとも忘れてしまう生き物である。過去のいくつもの災害や、経済危機も喉元を過ぎれば、平穏な日常に回帰してしまう。この回復する力、復元する力は人間の強さでもあるだけに、「わたしたちは忘れてしまう」ように思えてならない。
感染症、コロナ関連の作品ではこんなのもおススメ
ちなみに評論家の山形浩生(やまがたひろお)が、『コロナの時代の僕ら』をボコボコに酷評している書評がこちら。これはこれでとても面白い。